少年の食物
木村荘八
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)結《ゆわ》かれて
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正十三年十月)
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私は初めて絵を見たのは何が最初か、一寸おぼえていません。多分好んで見たのはポンチ絵だったろうと思います。窓から乞食が麦わらで室内の人の飲みものを飲む絵だとか、団十郎が尻に帆をかけて大阪へ行く? 絵などおぼえています。先是、私の家の二階の広間には大きな墨絵の龍を描いた額(三間幅位のもの)がありましたが、好きではありませんでした。私の室には何にも額はありませんでしたが、兄キの室へ行くと、そこのはいってふり向いた上の壁のところには――あれはどう云う性質のものだったろう? 何しろ石版画には相違ない。或いは、当時の市会議員の像かも知れぬ? そう云う、沢山に人のいる、それが各々小判形の中に、ベタ一面人のいる額がかかっていました。紙が黄ろくくすんでいたことと、星亨がいたこと、その顔は今もおぼえています。中に私の父もいるのでそれでヘンに好意を持っていた額です。――之等が私にとって最初の、座右の絵です。
それから同じ室の床の間に、大字で「来者不拒、去者不追」と二行に書き下ろした草書の大幅がかかっていました。右の行の不がふと書いてあって左の行の初めの去が、この土のところの十が大変太く、大きく書いてあった。――恐らく私は此の幅を十八年間眺めたものかも知れません。今思えば年中かけっぱなしで、おかしなものだが、何しろ必ず此の幅は兄キの室の床の間にあって、あの床の間にはあれがあるものと思っていました。尤も時々何だか薄い絵だとか、歴代天皇の御像だとか、正月には七福神とか、僕の五月には鍾馗、妹の三月には雛などとかけ代ったことはある。然し一時のことで、直ぐ又ドカンとした来者不拒……に代ります。又来者不拒が一番ぴったりとした、と云うより気に入った、これが出ていると気のすむような、いつものかけじでした。
――この文言が長らく読めませんでしたし、読んでもらっても、わかりませんでした。否、読むものなどとも別段思いません。見ていると不の字のふが、それ一字だけいつでも「ふ」と読めて気に入るし、去の頭の大きいのが何となく面白くて仕方ない。来る者は拒まず、去る者は追わず、と。之をこう読んで、それからその意味を何となく了解したのは極く極く後のことです。
私は、その家と十八の年に別れました。別れて浅草の家へ引越しましたが、却って、引越してから来者不拒のかけじを度々思い出しました。
実は此の来者不拒、去者不追と云うのがその後段々と好きになって、感想などにも、時々此の句を入れた。入れたくなる場合がありましたし、第一、懐しいせいもある。来者不拒、去者不追。かなり本当のこととその情操を感じたこともあります。
その後今では別段何とも思いません。こう云うかんばんをかけたいとは更々思いませんし、少し皮肉な見方かも知れないが、或いはあのかけじは誰か悟り切れない坊さんか、政治家のしくじりなどが気やすめに書いたものではあるまいか? などと訝かる。どっちみち人事の極く消極的な追句だと思うが、それとも何か偉い人の或る時の述懐か何かなら私の此の云いようはいけない。まあそう野狐禅ばかりでもあるまいけれど、思えば私の父など、成程、この来者去者の件では常住苦労もしたし、種々経験も多かったと思います。
では若しもそんな風で父が此の句に感心して何処かから買って来たか? 又は誰かに書いてでももらったか? ――そんな因縁のものなら、わるいと思うが、思えば父や母のしたことには時々極く小さなことなどに、却って後々不審の種となることがある。父はもういませんが母はいますから、あのかけじのことは聞いておいて見ましょう。少くもその家にあったいわれを。
此処に学校の教科書を想い起します。その中の火事の絵に好きなのがありましたが、第三課「富士登山」と云うのはフジトさんと云う人だと思い、何だか寂しい気がしました。直きに和紙が洋紙になったようでしたが、和紙の方がやわらかで好きでした。
多分芳年の筆と思う一つ家の図を想起します。――之は大版二枚がけ位のタテに長い版画でしたが、下では鬼婆が乳をぶらさげて出刃をとぎ、上からは身もちの真白な女が真赤なゆもじをして、結《ゆわ》かれてさかさに吊るされています。之が近所の大平という本屋に出ていましたが、度々見て、いろんな想像をしました。只怖いせいでしたろう、買ってもらいたい気はしませんでした。時々見たくなって見に行ったものである。
大寺少将の雪の中に立っている図を思い出します。それは錦絵の三枚続きを沢山裏表に貼り込んだ、四冊の画帖の中にあるものでしたが、主に芝居絵であった
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