をけずって軍艦をこしらえました。
所が近くの虎屋横町に住むナンブセーカンと云う、私の兄の友人が、更によく軍艦をこしらえることを知っていて、殊にナンブセーカンは出来上りの木の船へペンキを買って来て塗った。一体此のセーカンが然しありようは大のいたずらっ子で、表てなどで「ナンブセーカン」と聞くと私達こどもは逃げたものである。然し偶々家へ遊びに来て兄キと何かしているのを見ると、幾艘もペンキ塗の軍艦をこしらえて、私の家の物干しへ矢張りペンキで「旭造船所」と書きました。私は此の読み方を兄キに聞きましたが、うれしいと思いました。
私は先ず「美術」に就てはこのナンブセーカンと、それから前に云った叔父とに、大いに啓発されたことを感じます。――叔父にはその後今も逢いますから、よくその事を云っては昔の八百屋合戦の図を描いてくれと頼むが、只笑っていて、描いてくれない。「ナンブセーカン」氏には、さっぱりその後逢いません。
私は千代田小学校と云う学校へ上っていましたが、級の中では絵の好きな方でした。――それともう一つ好きなものがあったのは、唱歌室のオルガンで、余り弾いて見たいので一度忍び込んで弾いたことがある。胸がどきどきしました。
級の中では絵も相当描く方でしたが、決してうまい方ではなかった。つい名を度忘れして思い出さないが、或る同級の子に波を切る軍艦の絵を非常にうまく描くのがいた。私はそれを見ていると筆端に不思議な新鮮さを感じました。まざまざと回想します。
その頃絵好きの同志が集まって、私の家の三階でよく絵の描きっこをしました。その中に一人新籾と云うのがいましたが、濃い鉛筆で絵を描いて上からゼラチンをかける。それを油絵だと云って、ぴかぴか光らせて見せたのである。――私はそれ以来何枚絵をかいて何度ゼラチンをかけたか分りません。只新籾の絵は濃くて立派なのに自分のはどうも薄くてうまく油絵のように行かない。殊に一度驚いたような、家の人に見付かるといけない? と思ったのは、新籾がいきなり女の裸かを描いて、それを「油絵」にしたことです。きゃっきゃっと云っていたが、多分少なからず年のせいでしょう。私より年長でした。
その後この新籾は死んだと聞く。非常に僕を刺戟した、最初の「絵かき」である。
何でもその頃と思う。銀座の――何処だかわからないが、兎に角工場へはいって、そこで戦争の油絵と、それか
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