。時々、戦争絵が出て来て、しげしげと見ました。大寺少将は黒の外套を着て、その外套の胸に胡粉が一杯ついていましたが、それがブツブツ盛り上っているので好きでした。オーデラ少将と云う音にも妙に魅惑があったらしい。その他原田十吉の門破りとか、馬を連れた福島中佐など――この福島中佐には別にガラスの玉で、中に水と紙の粉と福島中佐の人形とが仕組んである玩具を持っていて、殆ど一日に一度や二度はきっとその玉を振って見る。するとバラバラと馬上の小さな中佐へ大雪がふりかかります。じっと見ている間に段々静まる。シーンとして、遠くへ行ったようの気になります。
 当時私の家はそっくり硝子戸の造りに、その硝子が一こま一こま、赤、青、黄、紫、白、と、五色の市松になっていました。二階で日なたにいると広間の畳へ不思議な色模様が染まります。その西日を受けた赤などの色は、余り気持のいいものではありませんでしたが私はよくその中の一つ色を選っては、互ちがいに飛んで歩いて、そこで遊んだことがあります。
 海や山は私は殆ど中学へ行く迄知りませんでした。芝公園へ行くと深山へ入ったようの気がしたものです。大てい家にばかりいて、絵は初めから好きでしたから殆ど小さい時分からよく描いていましたが、同時に鳴物が好きで、種々の楽器を好んで鳴らしました。手風琴、吹風琴、ハーモニカ、明笛など。或いは楽器で遊んだ時間が子供の中は一番多かったかもしれません。それに次いでは絵をかくことでした。
 極く小さい頃のことはおぼえていませんが、度々半紙に筆で八百屋ものの戦争の絵を描いたことを記憶します。きっとその茄子が鎧を着てかぼちゃを負かしている。横手に上野の戦争のような黒い柵があって、血は筆に墨をふくませておいて紙の上へぶっと吹かけたものです。全くその絵が出来上ってから血を吹きかける時には、勇壮の感がして――今でも昔の通り思い出せます。
 まだ十歳にはならなかったでしょう。十歳と云えば尋常三年ですから、尋常三年には多分軍艦や波を描いただろうと思う。一体私にあんな八百屋ものの戦争の絵を教えたのは、私の叔父だが、叔父は又何からああ云う画因を知っていたものだろう? 恐らくそんな絵草紙類があったものでしょうが見たいものです。――この叔父はなお細工ものが上手で、小さな木組をうまく扱って、そっくり二階建ての家などをこしらえていました。私はそれに真似て木
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