その意味を何となく了解したのは極く極く後のことです。
私は、その家と十八の年に別れました。別れて浅草の家へ引越しましたが、却って、引越してから来者不拒のかけじを度々思い出しました。
実は此の来者不拒、去者不追と云うのがその後段々と好きになって、感想などにも、時々此の句を入れた。入れたくなる場合がありましたし、第一、懐しいせいもある。来者不拒、去者不追。かなり本当のこととその情操を感じたこともあります。
その後今では別段何とも思いません。こう云うかんばんをかけたいとは更々思いませんし、少し皮肉な見方かも知れないが、或いはあのかけじは誰か悟り切れない坊さんか、政治家のしくじりなどが気やすめに書いたものではあるまいか? などと訝かる。どっちみち人事の極く消極的な追句だと思うが、それとも何か偉い人の或る時の述懐か何かなら私の此の云いようはいけない。まあそう野狐禅ばかりでもあるまいけれど、思えば私の父など、成程、この来者去者の件では常住苦労もしたし、種々経験も多かったと思います。
では若しもそんな風で父が此の句に感心して何処かから買って来たか? 又は誰かに書いてでももらったか? ――そんな因縁のものなら、わるいと思うが、思えば父や母のしたことには時々極く小さなことなどに、却って後々不審の種となることがある。父はもういませんが母はいますから、あのかけじのことは聞いておいて見ましょう。少くもその家にあったいわれを。
此処に学校の教科書を想い起します。その中の火事の絵に好きなのがありましたが、第三課「富士登山」と云うのはフジトさんと云う人だと思い、何だか寂しい気がしました。直きに和紙が洋紙になったようでしたが、和紙の方がやわらかで好きでした。
多分芳年の筆と思う一つ家の図を想起します。――之は大版二枚がけ位のタテに長い版画でしたが、下では鬼婆が乳をぶらさげて出刃をとぎ、上からは身もちの真白な女が真赤なゆもじをして、結《ゆわ》かれてさかさに吊るされています。之が近所の大平という本屋に出ていましたが、度々見て、いろんな想像をしました。只怖いせいでしたろう、買ってもらいたい気はしませんでした。時々見たくなって見に行ったものである。
大寺少将の雪の中に立っている図を思い出します。それは錦絵の三枚続きを沢山裏表に貼り込んだ、四冊の画帖の中にあるものでしたが、主に芝居絵であった
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