小杉放庵
木村荘八

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 これはしかつめらしい小杉論でもなければ、小杉伝でもない。筆を執ると渋滞することなく手繰れたぼくの「小杉感想」である。ぼくは小杉さんについて矢張り余人よりは知ることが多いやうである。第一平素の交渉なり関心が深い。しかし小杉さんと最も古い頃からの知り合ひかといふと? ぼくが小杉さんに辱知得たのは、所詮春陽会以来、ギリギリ四半世紀の昨今に止どまるから――これはかういつた書き方からいへば短かい[#「短かい」に傍点]月日であるが、しかし四半世紀、二十五年といへば、実は長い年月であつた。――ぼくは小杉さんの「往時」に関しては身親しくは識つてゐない。第一、年が違ふ。
 ――実はこの書きものは「小杉さん」などと却つて平素はぼくのその人を呼び馴れない名で書かうよりも、ぢかに「放庵」と呼びかけて書く方が、自然なのであるが、文中やがて明かなやうに、此の材料の人は、よく云ふ「二つ名のある」人なので、叙述に混乱の起る恐れがある。それで「小杉さん」といふ他人行儀な呼びかけを用ゐて筆を進めることにする。
 ぼくはいつも小杉さんとアンリ・マチスの年ばかりは、自分の年を忘れない限り、忘れないけれども、ぼくとは一廻り違ふ同じ巳歳が小杉さんである。それから更に一廻り(十二歳)年長の巳が、アンリ・マチスとなるのだつた。ぼくより一廻り下の巳歳は例へば画壇では誰に当るものだらうか。これはつい気を付けて見たことはなかつたが、今年四十二の厄年は誰であらう。丁度その厄年明の小杉さんが春陽会を創立したのだつた。更にその一廻り下の三十歳の巳は現在誰であらうか。三十歳の年にはぼくやぼくの同年の中川一政は昔春陽会へ参加した年配だつた。そして三十歳からもう一廻り下の巳年十八歳といへども、その年でそろそろ今から画壇に出て来ようとするものはあることだらう。小杉さんも恐らくその頃ほひの年齢に郷里から東京へと志されたことだつたらう。ぼくは十八の歳には中学を卒業して、やがて白馬会の研究所へ通ふ頃、その前の年に(明治四十二年十二月)自由劇場が「夜の宿」を出したのである。ぼくなんぞの十八歳は「芸術少年」だつた。
 小杉さんは第四回の文展(明治四十三年、三十歳)へ「杣」を出品して三等賞となつてゐたが、ヘンな言葉ながらこれが登龍門の小杉さんとしての第一関となつたやうである。「登龍門」はヘンな言葉ながら当時は文展も今日のやうなものでないから、字のまゝに登龍に値したらう。ぼくの誤聞でないとすれば、小杉さんはこの「杣」の前には、文展へ送つて「落選」の経験をされたらしい。「あの時分の落選は手痛いものだつたよ」と聞いたことがある。「それでハツプンしたんですなあ。あとは踏張りましてね」と、笑ひながら、目を細くして、話したことがあつた。小杉さんはまたかうもいつたことがあつた。あの時分には「対抗意識で仕事しましたね。対抗意識ばかり見たいなもんだ。こんどは一つアイツを乗り越してやらう。といふんでね」。
 小杉さんはかういふ、自分事の話などされる時には、テレて……といふか、心持視線を相手から避けながら、殊更にあたま(ハゲアタマ)に手をやつたりして、ごちよごちよと端折つて、そのくせ要点はズバズバと、話をする癖がある。得て自分事の功名であるとか分の善い内輪話などを、「吹聴」といふ字でいふのがいゝが、吹聴することを甚だ好まない。かといつて、偽悪的かと見るに、さうではない。いふべきこと、例へば主張すべきことは、ちやんと通してゐながらも、心やり細いのである。――こゝに小杉さんの風格があるだらう。随分の大作が行き、また小点の行く「小杉さん」がそこにあるだらう。
 小杉さんはぬけぬけした、或はズケズケした触りの微塵も無い人であるが、ふうはりした中にしまりのある、思ひやりの届く出所進退をよく弁へた、万事にキメの細かい人である。修養と意力によつてこれに適度の「断」があるであらう。
 小杉さんの風貌は神経つぽいとか「弱気」とか「蒲柳の質」といふのとは異る。肩幅など頑丈な手足も骨格のしつかりした「豪放型」であるから、しつかりした豪放型からは、いはゆる「心臓」も太い、あらけづりのところが出易い?――に反して、小杉さんからはさういふものは全然期待することが出来ない。この辺のがい切な観察はつとに故人の芥川龍之介が小杉さんについての短章の人物論に、はつきりと述べたことがあつた。小杉さんは粗野とは正反対の Education Sentimentale「訓練」を身につけてゐる人である。半ばは後天の収穫によると共に、一半は、さういふ天資だらう。
 ひよんなことからいきなり小杉論の中圏に筆を入れたけれども、鏑木さんがある時「人と話をするのに相手方の立場なり心持となつて話をしたり聞いたりすることはむづかしいものだ」これを心がけようと思ふといふ旨の述懐を記されてゐたことがある。小杉さんもかう思はれるや否や、ぼくの見るところでは、小杉さんはよしんばこの反対にしようと考へても、それより一足先きに、行為心操は「相手方の立場なり心持となつて」人と話をする人である。話をして来た人である。
 小杉さんは相手の強さ[#「強さ」に傍点]或は不正不当に対しては十分に靱ふ訓練を持つてゐるけれども、相手が弱く殊にそれが正当な場合には、見る見る「負ける」面白さを持つてゐる。相手が強く且正しい場合には襟を正して迎へ、若いものに対してさへその履をとることを辞さない、心を無にすることを――これは「人」に対する相対的でなくとも、予め「天」に対して――識つてゐる、間違ひの無い人物であるが、涙もろい話など持つて行けばほろりと陥落するをかしな人である。ひとに騙されたことなどもあるであらう。人を騙すことは無い人であるから、被害は決して大きくないのである。岡倉覚三さんは、人は媚び諛らふものを避けるといふけれども、阿諛者は可愛いもんぢやないか、と、豪然嘯いたといふことだが、小杉さんにはさういつたべらぼうな危険性はない。壮年にはこの種の冒険を猟奇したことはあつたゞらう。
 小杉さんは歴史を引くり返すとか、或は芸壇の屍山血河を大刀提げて乗り越えるとかいつたやうな、闘気熾んな「大家」ではないであらう。これに反して人間的、滋味豊かな、慈味を人生に学び取つた「賢人」の一人と考へる。小杉さんのやうな学道を採る人は画壇にこれから先きまづさう第二第三とは容易く現れまい。その学道――いひ替へれば小杉さんの人生を学び取るためには、これぞ「修養」といふ字でいへる、卑近にいへば「本を読む」修行が、また、絵をかくことと並んで並々ならぬ期年を要するからである。小杉さんの学問はその十中八九まで古代支那に参ずるところに基礎があると思ふ。(これに加ふるに和文。――却つてヨーロッパの脈は、殆んど少ないところに、今日から見れば特徴を帯びた。)芸文のものよりは史学に大多数の興味もあり、ゆかりも深かつた「修養」ではなかつたか。ぼくは画壇の人々にはいふまでもなく、その他の人から推しても、小杉さんまで漢籍をよくこなして読み込んでゐる人は、異例になるだらうと思つてゐる。これを「趣味」や嗜みと見ようには過ぎるのである。小杉さん自身は決して「学問」とはいはないだらうけれども、寸毫ためにする読書でないところにいはゆる「書巻の気」が直接その人の血になつて、小杉さんの内に流れてゐるし、小杉さんの外へ流れる。相当浩瀚の史籍も小杉さんが愛情を籠めてその話をするところを聞くと、珠玉のやうに、いつも掌の中に存するやうだ。今後となつては、この「型」は益々無いことだらうし、今日に見るも、小杉さんの如き籍中の人は、稀である。
 誰でもおよそ生活を五十年の上に持ち越さんがためには――殊にこれをピンと張つて――何がな一本勝負で食ふか食はれるかに立ち向ふものがないことには、持てないと思ふが、恐らくは退屈か、倦怠か、老衰か……に堕ち込むのが末で、なかなか時間と精神とをまつたうに永くは人は持ち越しにくいものと思ふけれども、立ち向ふ目標と定めたものが大きく、困難ならばそれだけ、その人はそれだけしつかりしてゐるやうである。――小杉さんは画学については、ヨーロッパでルーベンスあたりのものを見た時から指針を感じて、一般の洋学するものは「油絵」のアブラくさゝを真似にも身に付けようとするのを、小杉さんはこの「アブラくさゝ」を仕事から逆に抜くことに目標を持つたやうである。ぼくの耳食がもし間違ひだつたとすれば取消すけれども、小杉さんは、たしかルーブルでルーベンスを見て「これは日本にはいけない」とつくづく感じたと話されたことがあつた。僕はさう覚えてゐる。この「日本人にいけない」の「いけない」は「行けない」の意味も伏在するだらうが、正面の意味は、「不可」の「いけない」であつただらう。
 脇本楽之軒氏は世界美術全集の(第三十二巻。第七十六図)小杉作「水郷」について「向ふ鉢巻の漁夫が小舟の中に立つて網を始末してゐる図で、シャヴァンヌの画趣があるとは、第五回の文展出品当時、某々批評家等が筆にしたところ……」といつてゐるが「シャヴァンヌの画趣」は当時作者の筆端に寧ろあるべき自然だつたのではないかと思ふ。小杉さんがヨーロッパへ行つて捕へた「画趣」の一つの粉本は、シャヴァンヌが一番身近かつたらう。
[#「未醒作「うがひ」見取図」のキャプション付きの図(fig47644_01.png)入る]
 後に小杉さんは院展の大正四年春期展に――この絵は特にこれをこゝに引用する意味ではなく、偶々手許に図柄のよくわかる複製があるので、いふことが書き良いから、そして結局書くことは他の小杉さんの代表作についていふところも同じになるから、便宜上、これについて述べる――「鵜飼」といふ絵を出してゐるけれども、この仕事は「構図」とその装飾意義に画因なり仕事の趣意の大半のあるもので、これを構成するメチエはまた「線」に大半を負ふものであるが、評家のさきにいつたといふ「シャヴァンヌの画趣」は脱したもので、日本的となり同時に小杉的となつたものである。そしてそこに功罪倶にあるものと思ふ。「功」は作者が洋学をこなしてこの新地開拓に至つた点にあること、申すまでもなく、また「罪」は、その洋学からの脱却し方にある。作者の個性、あるひは境地は逸早くこの脱却し方に依つて樹てたらうけれども、「絵画」の本質は、これによつて多く得たか或は損失したか、暫く疑問としなければならない。
 次のぼくの耳食も亦聞き誤りなりとすれば改めるが、小杉さんは「油絵の写生といふ奴が苦手だつた」。これは、ダプレ・ナテュールのリアリズム或はナテュラリズムを意味したものであつた。
 脇本楽之軒云。「筆者(小杉氏)はこれよりさき夙く漫画家として名を揚げ、純粋の画家としては未だその才を世に示すことがなかつたのであるが……」と。これは「水郷」以前(三十歳以前)の作者になぞらへていふところである。「小杉さん」即未醒はそれまでに漫画家あるひは草画家、さしゑ画家として、鳴らしたことは、どうかすると今でもその「小杉未醒」の響きを人の口にすることがある程、博大だつたものだ。小杉さんといふ人は、一身を二体に分けて前後に「未醒」と「放庵」とを持つてゐる人であるが、「小杉未醒」は古い人である。数へれば今から二昔前の、それより更に前の四半世紀にかけて、画壇に活躍し、且人口に膾炙した名が「小杉未醒」であるから――小杉さんにしても、往年を顧れば感慨少なからぬものがあることだらう。
 少時日光で五百城文哉先生の門にあつた頃のことを暫く措く。笈を負うて東京へ出てからの小杉さんは、正規の画学を小山正太郎先生の不同舎に参ずる傍ら、思ふにその二十代の小杉さんは、五百城先生の門について絵だけでなく漢籍詩文の素読から叩れた骨がモノをいふと共に、向上心に富む求
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