道の心常に熾んな人の、それが懐ろ手をしてたゞ絵の勉強だけをして居ればよい小杉少年ではなかつた以上、先づ印刷刊行のものに向つて絵の仕事をすること、同時に文の仕事をすることが、小杉さんの前に展ける一路の公道であつたらうことは、極めて自然だつた。それで小杉さんは大いに、草画を描きまた大いに文章をかいたのである。小杉未醒[#「小杉未醒」に傍点]が当時雑誌や単行本で「かきまくつた」ものの数は、汗牛充棟もたゞならないとよくいふ、正に今これをぞつくりと目の前に積まれゝば、驚くべき嵩になるだらう。
逆にこれを今から歴史風にいひ返せば、わが「小杉未醒」はそれでさしゑ及び漫画の先達といふことになつてゐるけれども、これは若い小杉さんの当時ひとりでに迸つた才能だつた。勿論並ならぬ努力はあつたに違ひないが、別段期してさしゑなり漫画に先達の道を展かうとしたわけ合ひとは思はない。ある程の仕事、来る程の仕事を、片つ端から「退治た」業績と見るべきものである。結果としてこれが、儕輩を抜いて水際立つたといふことが、いやおうなくといはう、小杉未醒を、さしゑ画家、漫画家の大に仕立てた。――そしてこゝに小杉さんの「初期」が始つたと思ふ。同時にその風袋をもつて画壇に臨んだ。
初期といふものはそのまゝでは誰しもさだかならぬものだが、しかしこれを三つ児の魂ともいふか、その人の「筋」は必ずその人の初期を見ると、現れてゐる。これがコハイし、面白いものである。――ぼくのいひたいのは、小杉さんの「初期」を見るといふと、その漫画に依らず、さしゑに依らず……何れも、絵に装飾才能の分子が十の中八までを濃厚に占めてゐるといふこと、言葉を替へていへば、形似描写風の仕事よりも象徴風のカタチが絵の中に著しく強いことである。
小杉さんはさういふ仕事――この「仕事」とする字の意味は Work よりも Task の分子の多いものとして良い――をする一方に、これは Work または Study の意味としての、絵の正則な勉強を、片時も撓まなかつた。これは仕事のカタチからいへば、小杉さんの得意な象徴装飾風なるよりはどつちかと云ふと苦手の、形似的写実風のものに絵を導く過程だつたらう。小杉さんとしてこれは楽な或は楽しい画学であるよりも、苦しい勉学であつた方が多かつた過程に違ひない。
後に外国へ行つてからも、欧洲風のアブラ絵が日本の、――小杉未醒の――肌合ひに適さないことを身を以つて感ずるに至る実感までには、「苦しさ」の鞭が、十分、小杉さんの骨身を徹した、その上での、いのちをかけた頓悟だつたと思ふ。仕事から「アブラ」を抜くことは。
小杉さんは諧謔を以つて自分のハゲアタマのことを、渋々と、しかし面白さうに、宴席の芸妓どもなんかに、話すことを常とするが、ヨーロッパでボルドーの宿屋かどこかで朝起きて、洗面台に向ふといふと、梳る櫛の歯にからんで髪の毛がぞくぞくと脱ける。「――そんなわけで、段々無くなつて、こんなになつちやつたんだよ」アハ……と小杉さんは笑ふ。が、フランスで大々の油絵にひとり取り囲まれながら、毎朝髪を梳くと、束になつて頭の毛が脱ける。その環境と分別の中で断想した油絵否定、リアリズム否定が、作家「小杉未醒」の骨格を新規まき直しにする心であつたらうことは、推するに難くない。しかも意識は「否定」したはずのリアリズムを小杉さんが実は魂の底まで食ひ込まれて、荷ひ帰つたことは、知るや知らずや。――小杉さんは満谷さん(国四郎氏)と同行の旅であつたが、満谷さんが「歩に返つて」向うの作家(この個有名詞は忘れた)のところへ仕事のABCから基礎をたゝき直しに「弟子入り」しようとした時、小杉さんはいつたといふ。「それもいゝが、お互に日本ではシヨセイではない。一考は要るな」。言葉は違ふであらうが、意味はかういふことである。
やがては日本の大家を約された人達のその頃フランスに洋学した姿として、満谷さんも面白いし、小杉さんも面白い。小杉さんは「見識」を以つて――といふのは、必ずしも「手」からは行かずにアタマで――指針を掴んだのである。
そして小杉未醒は「画道」を発見して外国から帰つたのであるが、「小杉未醒」はそこで完成した。すでに漫画家未醒でもなければ、さしゑの未醒でもない。竹の台五号館の壁に左右上下両手を拡げても猶余る画面の行く人となつたのである。――ぼくはこゝで小杉さんの発見かつ完成した「小杉未醒」が、作家として何を一番獲たかといへば、大作の行く斯道を掴まへたことが、一つには画壇へのこの人の寄与であると共に、その人自身の十分な加餐であつたと思ふ。小杉さんの天性備はる装飾才能を大軌道へ乗せて押し出す恰幅を備へたのであつた。ぼくはこれを、小杉さんの第二期「中期」と見る。壮年期としても良いが、これが次の「放庵」に変るまで続くものである。会でいへば春陽会になるまで、時でいへば昭和になるまで、作者の歳でいへば四十代一杯まで。
あるひは絢爛とか、くだいていふバツとした、また颯爽とした……小杉さんの「時代」は、この「中期」にあつたであらう。配する大観さんがあつたので、そこに繰り展げられる豪華版の東海道道中なども、未醒伝の貫禄にかけて荷の勝つものではなくなり、昔二十四の時(明治三十七年)戦時画報社からその腕章を付けて満州の戦線へ派遣された時には、
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未醒ガ此行ノ携帯品中、尤モ用ヲナセシハ兵卒ノ使フ所ノあるみにゆむ製ツル付キノ行厨器ナリ。飯ヲ容ルル二三食分悉ク提ゲ得可キハ第一、第二鍋ノ代リトシテ湯ヲ沸ス可ク徴発ノ南瓜豚肉ヲ煮ルベシ。第三蓋ヲ煙草盆トシテ煙管ポンポンナドノ便アリ、第四舎営ノ夜半ニ筆ヲ揮フトキ蝋燭立トスベシ、第五ハ即チ枕ノ代理而シテ彼ノぴすとるニ至ツテハ、幸ニ吾常勝軍ニ従フニ依ツテ徒ニ行李ノ重量ヲ増スノミ、更ニ一分ノ用ヲモナサズ。依リテ行厨器ヲ功一級トナサバ、ぴすとるハ応ニ位記返上タルベキカ(戦時画報二十三号)
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小杉さんの同僚には、木村半心、芦原録、水島南平、岡部天籟、かういふ人々があつて、皆筆硯忙しく今日の字でいふ「報道班員」の仕事を競ひ合つたものだつた。――やがて、十年後の「小杉未醒」と、昔の同僚とでは、(小杉さんがこしらへたものではない)遠い開きが付くことになつた。
ぼくはしかし「完成した」とはいつたけれども、美術を完成したとはいはない。小杉さんは先づ、「未醒」を完成したのであつた。そしてぼくに暴言さすれば、これが余人だつたら、小杉さんは颯爽絢爛たる「未醒」の幕の中で、相当安らかに眠つてしまふこと無きにしもあらず、小杉さんに美術と人生に対する求道が乏しかつたならば、到底人はよく「小杉未醒」から「小杉放庵」へと再蝉脱することは出来ない。普通人生ではこれは考へられない。「未醒」既でに画壇の大名である。しかし美術から云へば、到底「未醒」までの見識、発見、業績、態度では尽さなかつたところを、「放庵」以後の小杉さんには、――こゝに注意すべきは、その時小杉さんの手に持つた彩料は、洋彩でなく[#「洋彩でなく」に傍点]、和彩[#「和彩」に傍点]だつたといふこと――ぼくは小杉さんの描く油絵も、少くも、春陽会以後のものは「洋画」とは考へてゐない。立派に「和画」だと考へてゐる。ここに至つて、美術があたかも返り咲きの花のやうに燦々と咲いた。あるひは二曲屏風に桜の若樹を写したものであるとか、岩とか、鳥とか、殊に方寸尺の小点のものに多い覊旅の心尽しや道釈人物に、津々と筆路の深く美しいものがある。
小杉さんは交りものゝ無い日本画材料によつてこれを描く人となつた。いはうなら「日本画家」小杉となつて、これまでの日本画、洋画双方を踏まへた「未醒」を脱却したのである。一体われわれの言葉の、この日本画家洋画家といふ語彙は、わるいものである。こゝにも奈何せんそんな言葉なり観念があるので、ぼくも持廻つて冗説するものゝ、実は、殊更に「日本画家」放庵となつたとはいはなくとも良い。小杉さんは放庵と号する頃ほひから、とみに純粋な絵かきに再発足したのであつた。――少くともそれ以前の小杉さん、小杉未醒は、日本画にまれ洋画にまれ、絵画そのものに非力を免れたとはいへなかつたものを、こゝに五十歳の峠道をのぞんで「純粋」な絵かきに再発足し、変貌した小杉さんが、日本画家としてだつたといふことは、画人小杉の性格であると同時に、宿命とすべきものだつた。ところが更にわれわれの注意すべく、特に指摘すべき、こゝに、「画人小杉」の上の新しい出来事、これぞ「彼」が「放庵」へ変つた、最大の意義があるのは――筆路にリアリズムの再誕生したことである。
これは「画人小杉」の歴史の上での奇蹟と呼ぶも差支へないであらう。ぼくの考へでは、この奇蹟は、小杉さんが相次ぐ三越で催した毎年の小さからぬ個展のきつかけから、花鳥ものを始めたことがある。その場合が機縁だつたと思ふのである。そしてこれを始めるや小杉さんは――院展における未醒時代の大作油絵のやうに、効果を大幅ではあるが深さは浅く、画面へ浚ふ。――この行り方を採らずに材料の中心を目ざして、筆を立てゝ、真直ぐ食ひ下がることをやり出した。横に塗らずに竪にかくことをやり出した。
洋画法ではこれをやらうとしても「苦手」でやりにくかつたこと、ヨーロッパでは一旦その人の「意誠」を以つて見捨てたこと、リアリズムを、これと四つに組む捲土重来の姿勢で日本画家「放庵」は――ぼくをして敢ていはしめよ。彼はこゝにその志望を達したのである。
写実が絵の仕事の窮極だといふ意味ではない。「絵」はそれとは又別であるが、画人小杉に写実の花咲いた目出度さをいふ。――学而時習之不亦説乎の「習」といふ字は、鳥の雛が巣立たうとして下に玉子の殻(白字)を踏まへながら、不断に空へと羽ばたき羽ばたく象ちだといふけれども、小杉さんは、五百城先生の巣から羽ばたきとんで、先づ草画家の風を得、その未醒時代には、また如何に羽ばたいて、草画家の殻を脱けようとしたらう、更に放庵に代つて、またまた如何に羽ばたいて未醒を脱却したらう。これ「小杉さん」という求道飽くこと無き人の、有り態の姿だつたのである。
小杉さんは先づさしゑ、漫画の大であつて次に華々しい画壇の雄であつて、「大家」で、やがて「元老」で「会員」で……あるが、それは泡沫の事々である。たゞ大切なのは、小杉さんが末始終美術の中の人だつたといふことで、されば「未醒」から「放庵」への不可能に近い再蝉脱も血気壮んな壮年期の旋風の中でその風に浮かずに、見事やり遂げた。――今や平安来る。「放庵」は小杉さんの第三時期、やがてその軌道を以つて小杉さんは「晩年」に移行するのであるが、この道に至つて、行けども行けども窮まらないだらう。
されば何が目に見えて未醒から放庵へ「変つた」点かといへば、明らかなのは「線」の変化である。――一体小杉さんの画歴は、終始「線」の歴史だと見てよいと思ふが、小杉さんの初めの仕事にある線は、その絵の構図本位に(あるひはいふ、装飾意図のために)引かれてゐるものは多くとも、対象の諸相に対して(写実と非写実を問はず)直かに引かれた線は少なかつた。線が締めくくる急所を避けて、たるみ、遊ぶものがある。初期、「未醒」時代の草画、漫画の画式はさう出来てゐたやうである。
石井柏亭氏はその著「日本絵画三代志」の中で小杉さんを叙する件りに、「『降魔』などから見ると第四回文展の『杣』や、その翌年の『水郷』などは大分垢ぬけた処を示してゐた。けれども其人物等の外廓線にはある癖があり、大正元年の『豆の秋』になると何かコマ絵を拡大したやうな感じが勝つてゐた。……」といつてゐるけれども、「豆の秋」には石井さんの慊らないところに同時にこの当時の小杉さんの特技も同生することを見逃せないと思ふのは、「構図」(装飾意図)の成功である。「水郷」の線には初期未醒の線は余程清算されあるひは浄化されて、「たるみ」「遊び」あるひは低徊がない。まつたうに画象を通じて自然から引かれた線になつてゐる。――「この自然」からといふ個処は
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