「美感」からといひ直してもいゝが、何故なら、この絵の作者未醒は必ずしもダプレ・ナテュールの人ではないのであるから。
柏亭氏が「其人物等の外廓線にはある癖があり……」といふ。この「癖」と名指すものは、小杉さんが楽にかく時にはそれの出てくるものであり、しかしこれがあるために、一方大手の仕事が行くし、それが装飾的象徴的効果にのびる、この作者の得手に働いたこと、少なくない。しかし若しこれが撓められずにゐたとすれば、「画人小杉」はこの線のために自繩自縛にかゝつたかも知れない、安易道のものである。――作者の求道心は、この仕事の叢にすむ蛇ともいふべきものを、時と共に、善処始末した。
死んだ外狩素心庵は小杉さんが水墨の仕事に麻紙を愛用するについて、一方その効果を認めながらも、一方その欠点を衝き、一頃小杉さんがよく破墨を麻紙のザラ目の紙面(つまりそこに抄き込まれた麻の繊維)につゝかけて、絵の「味」を出す手法を採つたことがある。このやり方は、見た目の「味」のために肝腎の「素描」を殺すことだといつて、惜しんだことがあつた。――後の放庵には、このことは無いのである。
また院展に出た「鵜飼」のやり口は、のびることはこの線でどこまでものびる。たしかにそれは大作画法として一つの必要なスタイルに相異ないと思ふけれども(求心的に絵の素描は立てず、遠心的に装飾で効果を大手にまとめて行くこと)、たゞくゝりが無い。扇子に例へれば、いゝ骨だし展きも見事なものだが、要の弛いために、がくがくするやうなもの、骨格の弱体を蔽へない仕事振りだつた。――やがてこれも亦「放庵」には反省され、是正された。
前に「登龍」とヘンな言葉を使つた小杉さんの行路は、文展三等賞の「杣」につゞく「水郷」(第五回文展、明治四十四年)と「豆の秋」(第六回文展、大正元年)が相次ぐ二等賞となり、水郷について楽之軒云、「この作によつて一躍新進作家の首班に列し、翌年「豆の秋」を出すに至つて画壇における位置は確立した」と、この文章は、この通り肯つて良い、作家「小杉未醒」の壮年の行程だつたのである。
小杉さんの行路は院展洋画部創立(大正三年)の頃から、年益々、幅の広いものとなるのだつたが、仕事はいよいよ油絵のアブラくさゝを遠ざかつて、素材そのものも、日本画法によるところが多くなつてきた。洋画風の道としては、イーゼル・ピクチュアよりも壁画風なコースがこの人の任となつたことは、自然の推移であつた。
壁画には自らこの仕事に記念塔を打建てる意気込みの、自ら仕事を買つて出た、帝大講堂のアンビシャスな仕事振りがある。(大正十四年)――この作は恐らく日本最大の壁面を絵で扱つたものだらう。作者もまた、人に仕事を見せよう、等々の発意よりも、その尨大な画面を「絵にして見よう」と思ひ立つた無垢のところに、この画因の素直な胚胎を認めて、着手したものである。
相当暑い夏にかけてのことだつた。小杉さんは水谷清を助手に使つて、帝大構内の、何か洞窟か何かのやうだつた、関係者以外には人の一人として知らぬ、ガランとした仕事場で、前後百五十日の間、毎日朝から日の暮れるまで、暑さの真盛りはシャツ一枚で、この壁画を描いてゐたものである――ぼくにもう一言余言を加へさせれば、描いて楽しんでゐたものである。
壁画はアーチ形のもので、高さ三間強、幅五間はあつたと思ふ。確実な寸尺は今手許に控へが無いが、余事ながらいひ添へれば、この大仕事は作者の奉仕だつた。作者は一意仕事をする大きな壁が欲しかつたのである。
老来小杉さんは枯淡になつた筆路に、この十年方前からは、打つて変つた緻密な「写実手法」を十分楽しみながら、年益々「日本画法」の堂に参じつゝ、今に及んでゐる。そして最近年は(現在はといつても良いだらう)、ぼくに与へた最近信にいふ。
「……安土※[#「てへん+總のつくり」、第3水準1−84−90]見寺のフスマの絵は扇面に信長の幕下の諸将をおきたく思ふ。御手元にあの頃の大紋姿甲冑姿の参考あらんと思ふ。お貸し下されずや。此前戦災にて借用参考書焼きたり。千万すまぬ次第なり。コンドは焼きません。十、十九(昭和二十一年)、放迂」。(小杉さんは手紙の署名にいろんなことを書いて来る。昔は半禿、近頃では禿、放禿、迂禿、放迂、山翁……等)しきりとこの節は人物画に心動くやうである。この小杉さんの老境は、多分これが一番面白い作家の境地の一となりつゝ、また更に渋く、枯れて、為ることが心の円輪へと沈潜してゆく順路だと考へる。――先生の静かなる老境に幸あれ。
放庵はそんな具合に事業を辿つて来た人であるが、こゝにぼく後生の断想を一顧すれば、小杉放庵は必ずしもその生活行路(生活内容)の一本勝負を「絵画」ばかりとまともに切先きつけて来た剣士ではなかつたといふことである。寧ろ絵画を便道として構へながら、志す一本勝負の的は、「人生」そのもの、そのものゝあはれ[#「ものゝあはれ」に傍点]、苦楽一如。これに狙ひ定めた、いはゞ僧形の剣士の風格は無かつたらうか。
そしてその「的」こそ、余人は知らね、弱冠五百城先生の門を走つて東上してこの方、あるひは多忙多労の草画士となり、風物詩画をものし、水滸伝を描き、戦のたゝずまひを叙し、中頃文展興隆の機運につれて――これは丁度鏑木清方氏と同じやうな行路に――一転「大」となり、更に斯界の「大々」となりながら……画壇四十年のこの人となつた、小杉さんである。
しかし小杉さんの目的そのものは、斯界の大々となるも何もない。画客の大とならうことさへ――壮年、中年の頃はしらず――近年の小杉さんは考へてゐなかつたらう。思ふに一路絵の仕事の念仏唱名を通じて人生の仏果を得たいと、この長い修行に、心を傾けて来た。
小杉放庵は、当代の高士だと思ふのである。あたら歌舞伎の法燈も羽左衛門を失つたことによつて先づ歴史の一段落と思ふ。わが文人画道の正しい法燈も、当代小杉放庵がなければ、その燈影は殆んど微々奄々たるものだと考へざるを得ない。――小杉さんの存在は貴重なものとなつた。先生の加餐を念ずるや切なるものがある。
近頃の好季節に、小杉さんは、赤倉の、温度も滅多に八十度とは上らない山の中で、鳥の声や、草々、身辺の奇巌、いはなの棲む渓流。その中に悠々自適するのであるが、過ぐる戦災に、東京の家や諸調度の類を失つたことは傷心なるも、就中本を焼かれたことは、ぼくなんかもこれを思ふ度に、困つたことをしたと痛心する。よそごととは思へない。再三北京の瑠璃廠あたりを漁つて過去何年かに渉つて蓄積された、ちよつと二度とは手に入れにくからう本ばかりであるから、弱つたと思ふ。いや、小杉さんとしては、定めしこれが戦災の最大の痛手に相違ない。
小杉さんの老友に公田連太郎先生があるけれども、淡々として公田さん曰、私は多分君より先に死ぬであらうから、死んだら、私の本は、そつくり君のものとしてよい。しかし死ぬまでは貸しておいて貰ひたい、と。
小杉さんはかういふ友達を現実にもつてゐる。或はもつことの出来た、人間最大の幸福の所有者の一人といつていゝ人である。公田さんもまた小杉さんを介して逆に同じことのいへる、当代の高士だ。――思ふべきは、こんな竹林の中の世界が、ちやんと「小杉さん」といふ人の環境裡には、手堅く成り立つてゐるといふ、驚くべく羨むべき昭和二十一年の身辺の現実であらう。
小杉さんはずつと友達運のいゝ人だつたが、それが又(結果から見ると)友達運に薄かつたともいへる不思議な縁をたどつたことは、押川春浪、国木田独歩、中沢臨川、今村紫紅、森田恒友、倉田白羊、(追記、山本鼎)、好友ならざるなし、しかしその一人々々と、ぼつぼつと、別れて来たのだつた。それかあらぬか、森田さんの病篤い時だつた。倉田さんの時にもさうだつたが、その亡くなられる前から、小杉さんは、森田は死ぬなァ、または、倉田は死ぬなァ、死ぬなァと、その人の話の出る度に、その時病ひ篤かつた森田さん、倉田さん達の「死ぬ」ことばかり口に出していつて、僕など、返答に困ること度々だつた。そしてこれは聡慧流水の如しと雖も、小杉さん自ら気がつかれないことには、小杉さんはその都度、実はまだあれに死なれてはたまらないなァ、やりきれないなァ、と心に切々と、深々と、思ひ溢れてゐる。されば逆に言葉に出して、最悪に対してしきりと伏線を張りながら、寂しさを撓めてゐたのである。撓めて堪へきれなかつた小杉さんのジェステュアだつたといへると思ふ。――これらの盟友と次ぎ次ぎに別れて来た苦盃も、小杉さんの人間を慈味に深い、思ひやりの細かな風格としたゞらう。
小杉さんは日光の人であるが、関東は地つゞきのかたぎもあらうか、殊に教養経験の数々、筋々が、皆まつたうの場所を踏んできてゐるところから、全然、僻遠の地の人の風はない。大江戸残党の苦労人といつたやうな滋味のある、イキなオヤヂである。(若しそれイキゴトに至つては、御膝元の鏑木さんよりも、ワカル、悪老、日光の放庵だ。)小杉少年が五百城先生の膝下から東京に出たのは、折柄紫派の波が中心地に盛んな頃だつた。却つて五百城先生はその渦中に投ずることを欲しなかつたといふ。
さうして小杉さんは東京へ出ると、紫派の一敵国であつた不同舎に就いて――いつのことだつたか、後年何かの講演?で和田さん(英作氏)と一緒の席だつた時に、和田さんの講演に次いで小杉さんが一席、こゝにおいでの和田さん達、紫派の諸将に対しては、自分は、クソ!と、目の敵にして対抗したものだつたと、話をされたことがあるさうである。和田さんもまた笑み崩れて聞いてゐて「面白かつたよ」と小杉さんはこの話をしながら、たのしさうであつた。
小杉さんは有情多感、一頃は大いに呑んだ。ある時一升壜の酒へ生きた蝮をそのまゝ突つこんでこれを床の間へ安置して寝たところが、「蝮が壜の中であばれたらしいんだな、夜中に壜ごと引くら返りましてね。そこら中に酒は流れる、蝮は這ひ出す。イヤ閉口したことがあるよ」といふ。壮年錚々たる天狗クラブ党中の闘将であり、また、多年にわたつて、庭球はポプラ倶楽部の現役メンバーだつたことは、知る人ぞ知る。小杉さんの老来いよいよ衰へない健康は、このテニスや、これも多年の山登りなどの鍛錬から来てゐるだらう。小杉さんはまた好んで煙霞の人だ。日本本土は殆んど行つてゐないところは無い位だらうし、支那へも数回往復してゐる。
ぼくは故五百城先生の奥さんと小杉さんの田端の家でお目にかゝつたことがあつたが、小杉さんが手を引かんばかりにして、品のよい老夫人をぼくに紹介されたのであつた。小杉さんは五百城先生の遺文詩集を出版されたことがあつた。小杉さんの画室には始終五百城さんの日光の滝を描いた十二号程の油絵がかけてあつた。
小杉さんの家の紋どころが四ツ目、小川芋銭さんが四ツ目、ぼくがまた四ツ目で、紋の話が出ると、よくこれは話題になつたものだつたが、互ひに穿鑿すれば、その上は佐々木高綱あたりと関係があるものかどうか。
「小杉未醒(後放庵と改めた)は日光で五百城文哉についたあと不同舎で学んだ人であるが、略……作者その人に豪放な所があるやうで感傷的な一面もあるのと同じやうなものが、その作品の上にも窺はれるのであつた。」これは柏亭氏が日本絵画三代志の文章を結んだ言葉である。
○放庵号について
小杉さんを「未醒」と呼ぶ人はやがて少くなつて来た。とはいつても、「小杉未醒」がなくなつたわけではなく、小杉さんをいまだに「小杉未醒」と呼ぶ方がなじみの深い古友古識の人々はあることだらう。現在の小杉さんからは殆んど完全といつてよい程旧の「小杉未醒」はぬぐひ去られて、新「放庵」と化つたのであるが、一体「小杉未醒」と称するこの「名」に鋳り付いた仕事の味は消えやらず、人の記憶にも、画壇の記憶にも、相当色濃く残つてゐるので、小杉さんの変貌はなかなか手間のいることである。
いつから「小杉未醒」が「小杉放庵」になつたかといふことは、前後を細かく穿鑿すれば違ひも出てくるであらうが、かういへばわかりもよし、先づ大過も
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