ないといふところで、五十歳を迎へる機に、小杉さんは放庵となり未醒ではなくなつた、として良いのである。春陽会展も第六回までは小杉さんは「未醒」号によつて絵を出してゐる。これが第七回展(昭和四年春)になるとその出品目録の第一四六番に、
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山童嬉遊 小杉放庵
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といふ一行が出て来る。そしてこれが堅いことをいへば後に文献としてモノをいふ公式の、最初の記念文字となるものだからである。正しく勘定すれば昭和四年は小杉さんは年四十九に当る。(後記=これはあとから小杉さんに「あの書きものではじめて自分にもよくわかつた」、と云はれた。)
 小杉さんが大正十四年に帝大の講堂の壁画を描いたことは前にいつたけれども、後にその作品を世界美術全集に入れて、解説をかく時、この解説はぼくが書くことゝなつたについて、さて、作者の名を、未醒としようか、放庵としようか?には、迷つたものだつた。ぼくは「……作者は従来未醒を号としたが、頃年来は未醒号を用ゆる場合よりも放庵を号する場合が多い」と、あとがきをつけて、作者名はわざと「小杉放庵」にしておいたことがある。(昭和五年版、全集第三
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