くなんぞの十八歳は「芸術少年」だつた。
小杉さんは第四回の文展(明治四十三年、三十歳)へ「杣」を出品して三等賞となつてゐたが、ヘンな言葉ながらこれが登龍門の小杉さんとしての第一関となつたやうである。「登龍門」はヘンな言葉ながら当時は文展も今日のやうなものでないから、字のまゝに登龍に値したらう。ぼくの誤聞でないとすれば、小杉さんはこの「杣」の前には、文展へ送つて「落選」の経験をされたらしい。「あの時分の落選は手痛いものだつたよ」と聞いたことがある。「それでハツプンしたんですなあ。あとは踏張りましてね」と、笑ひながら、目を細くして、話したことがあつた。小杉さんはまたかうもいつたことがあつた。あの時分には「対抗意識で仕事しましたね。対抗意識ばかり見たいなもんだ。こんどは一つアイツを乗り越してやらう。といふんでね」。
小杉さんはかういふ、自分事の話などされる時には、テレて……といふか、心持視線を相手から避けながら、殊更にあたま(ハゲアタマ)に手をやつたりして、ごちよごちよと端折つて、そのくせ要点はズバズバと、話をする癖がある。得て自分事の功名であるとか分の善い内輪話などを、「吹聴」といふ字
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