あつた。
小杉さんは有情多感、一頃は大いに呑んだ。ある時一升壜の酒へ生きた蝮をそのまゝ突つこんでこれを床の間へ安置して寝たところが、「蝮が壜の中であばれたらしいんだな、夜中に壜ごと引くら返りましてね。そこら中に酒は流れる、蝮は這ひ出す。イヤ閉口したことがあるよ」といふ。壮年錚々たる天狗クラブ党中の闘将であり、また、多年にわたつて、庭球はポプラ倶楽部の現役メンバーだつたことは、知る人ぞ知る。小杉さんの老来いよいよ衰へない健康は、このテニスや、これも多年の山登りなどの鍛錬から来てゐるだらう。小杉さんはまた好んで煙霞の人だ。日本本土は殆んど行つてゐないところは無い位だらうし、支那へも数回往復してゐる。
ぼくは故五百城先生の奥さんと小杉さんの田端の家でお目にかゝつたことがあつたが、小杉さんが手を引かんばかりにして、品のよい老夫人をぼくに紹介されたのであつた。小杉さんは五百城先生の遺文詩集を出版されたことがあつた。小杉さんの画室には始終五百城さんの日光の滝を描いた十二号程の油絵がかけてあつた。
小杉さんの家の紋どころが四ツ目、小川芋銭さんが四ツ目、ぼくがまた四ツ目で、紋の話が出ると、よくこれは話題になつたものだつたが、互ひに穿鑿すれば、その上は佐々木高綱あたりと関係があるものかどうか。
「小杉未醒(後放庵と改めた)は日光で五百城文哉についたあと不同舎で学んだ人であるが、略……作者その人に豪放な所があるやうで感傷的な一面もあるのと同じやうなものが、その作品の上にも窺はれるのであつた。」これは柏亭氏が日本絵画三代志の文章を結んだ言葉である。
○放庵号について
小杉さんを「未醒」と呼ぶ人はやがて少くなつて来た。とはいつても、「小杉未醒」がなくなつたわけではなく、小杉さんをいまだに「小杉未醒」と呼ぶ方がなじみの深い古友古識の人々はあることだらう。現在の小杉さんからは殆んど完全といつてよい程旧の「小杉未醒」はぬぐひ去られて、新「放庵」と化つたのであるが、一体「小杉未醒」と称するこの「名」に鋳り付いた仕事の味は消えやらず、人の記憶にも、画壇の記憶にも、相当色濃く残つてゐるので、小杉さんの変貌はなかなか手間のいることである。
いつから「小杉未醒」が「小杉放庵」になつたかといふことは、前後を細かく穿鑿すれば違ひも出てくるであらうが、かういへばわかりもよし、先づ大過もないといふところで、五十歳を迎へる機に、小杉さんは放庵となり未醒ではなくなつた、として良いのである。春陽会展も第六回までは小杉さんは「未醒」号によつて絵を出してゐる。これが第七回展(昭和四年春)になるとその出品目録の第一四六番に、
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山童嬉遊 小杉放庵
[#ここで字下げ終わり]
といふ一行が出て来る。そしてこれが堅いことをいへば後に文献としてモノをいふ公式の、最初の記念文字となるものだからである。正しく勘定すれば昭和四年は小杉さんは年四十九に当る。(後記=これはあとから小杉さんに「あの書きものではじめて自分にもよくわかつた」、と云はれた。)
小杉さんが大正十四年に帝大の講堂の壁画を描いたことは前にいつたけれども、後にその作品を世界美術全集に入れて、解説をかく時、この解説はぼくが書くことゝなつたについて、さて、作者の名を、未醒としようか、放庵としようか?には、迷つたものだつた。ぼくは「……作者は従来未醒を号としたが、頃年来は未醒号を用ゆる場合よりも放庵を号する場合が多い」と、あとがきをつけて、作者名はわざと「小杉放庵」にしておいたことがある。(昭和五年版、全集第三十五巻、第六十六図)ひとから放庵の名で書かれて、これが印字となつた公けのやうなものゝ初めは、これであらう。
どうして小杉さんが未醒号を廃して放庵号に移つたかといふたしかな筋のことはきゝ洩らしてゐるけれども、ある時、心おきない客同志の酒席で、小杉さんの古くからの知り合ひの人が小杉さんに訊いたことがあつた。「どうしてあなたは未醒をやめたのですか。この頃では全然未醒は使ひませんか。」小杉さんは「えゝ」と答へた。しかし「どうして」といふ問ひ方には何も答へずにゐるうちに、問ふ人は重ねて「未醒といふ号はいゝと思ひますがなァ(笑つて)、この未醒といふ字にイミがあるのが気に入らなくなつたかなァ」。小杉さんは酒盃を喞んで「いやァ」ハハハハと笑つた。問ふ人もニコニコしながら、こんどはぼくを顧みて「未醒でなく既醒、すでに醒むですかなァ。いや、未醒がいゝなァ。Kさん、どうです。醒めない方がいゝでせう……」。
小杉さんも始終一緒になつて笑つてゐたけれども――今考へて見ると、前後に此の時だけしか、未醒を廃したことについては小杉さんとの間で、これが特別の話題に上つたことはない。
いつか小杉さんはすらすらと未醒
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