から放庵になり、われわれ、また、何のこだはりもなく不思議もなくこれを肯つたやうであつた。そしてぼくの私感からいへば(必ずしもその後この名になじんだ習慣からいふのではなく)、前の未醒号よりは今の放庵号の方がいゝと思つてゐる。一つには小杉さんの「年輩」に対する似合ひの意味でもあるであらう。
 小杉さん自身としても、未醒号を廃したについては――酒席のそれとない質問に対しても、正面切つては返答のできにくかつたのが却つて自然な程に――さりげなく変へたものではなかつたらうか。丁度季節の変り目に人が似合ひの衣更へをする自然さのやうに、思へば「未醒」といふ字の「イミあり気な」ところも、それを殊更に穿鑿するまでのことはなくとも、いはばカンで、小杉さんその人に気に入らなくなつた兆しは、恐らくなかつたとはいへまい。
 元々この「放庵」といふ号は、倉田さん(白羊氏)が自分用に腹案してゐたものを、小杉さんと倉田さんの間柄のくつたくなさは「オマヘさんにはそれは似合はないよ」といふやうなことから、小杉さんがバイ取つた由来のものであつた。――倉田さんは晩年は忘斎と号してゐた。そして小杉さんを、一番多く新しく「放庵」と呼んでゐたのは倉田さんだつた。山本さん(鼎氏)達は小杉、小杉と呼ぶ場合が多かつた。
 小杉さんについて述べるには是非大観さんと小杉さんの関係も誌さなければ、材料の一つの大きな面を落すことになるけれども、ぼくにはこれこそ「耳食」の他には書きやうのないことゝなるので、省くことゝした。ぼくとその両先生達「院展時代」の関係は、丁度、兵卒対将校、学生対教師のいはゆる「段違ひ」となるものである。距離がありすぎてパースペクチブの間違ひをかくといけないから。大観さんはぼくの顔を見る度に必ず「田端は」田端はといふし、小杉さんはまた「茅町」とよくいふ。美術報国会の時には殆んど大観さん、つまり「会長」は、幕僚に美報理事として小杉さんを加へなければ、出馬しかねまじき具合だつた。ある時大観さん(大分酔つて)ぼくに向つて曰く「この小杉さんはね巳ですね。巳は蛇ですよ。(へんな手付きをして)ニヨロニヨロと穴から出てあつちこつちを見て、それから這ひ出す。はゝあ、これはいかん、と思ふと、這ひ出しません。」そこで大観さん独得の愛くるしい笑顔をされて、とたんにまた、ギヨロリと傍らの小杉さんに凄い一瞥をくれながら「ねえ君、この人はさういふ人だよ。」
 私はその時大観さんにいつた。
「先生、私も矢張り巳なんです。一廻り下のヘビです。」
「いやァ、これはいかん。」
と大観さんは頭をかいた。
 小杉さんについては猶その文、その歌、その著述、これについても本当は述べなければならない。いつか補筆する機会があるだらう。(そして僕とは、僕の年少をも意とせず、小杉さんは年来「東京」の「粋」を僕に頒ち与へる東道の範となつてくれた方だつた。「粋」今や全然地を払うて無し、小杉さんは年中の大半を山中に隠れる「翁」となつて、互ひに敗戦日本に、配給米を食らふ貧弱と化した現在であるが、小杉さんと一緒に見た年々の月や、奇麗な、或ひは洗練された人々や、歌や、小杉さんの盃や、いろんな食ひもの、いろんな座敷の数々、どうかするとそれは水郷取手や牛久の侘びた商人宿だつたこともある……。
 ……これは僕に数限りない生きガクモンを実地教習してくれたものだつた。計らざりき、もう二度とは見られない「大日本」国の「粋」でもあつたのである。
 画道については又問ふに人有るべきも、生きガクモンについては天与の他に師は無い。僕は小杉さんに師恩の深きを負ふものである。(昭和二十三年秋日誌)



底本:「東京の風俗」冨山房百科文庫、冨山房
   1978(昭和53)年3月29日第1刷発行
   1989(平成元)年8月12日第2刷発行
底本の親本:「東京の風俗」毎日新聞社
   1949(昭和24)年2月20日発行
※図版は、底本の親本からとりました。
入力:門田裕志
校正:伊藤時也
2009年1月6日作成
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