道として構へながら、志す一本勝負の的は、「人生」そのもの、そのものゝあはれ[#「ものゝあはれ」に傍点]、苦楽一如。これに狙ひ定めた、いはゞ僧形の剣士の風格は無かつたらうか。
そしてその「的」こそ、余人は知らね、弱冠五百城先生の門を走つて東上してこの方、あるひは多忙多労の草画士となり、風物詩画をものし、水滸伝を描き、戦のたゝずまひを叙し、中頃文展興隆の機運につれて――これは丁度鏑木清方氏と同じやうな行路に――一転「大」となり、更に斯界の「大々」となりながら……画壇四十年のこの人となつた、小杉さんである。
しかし小杉さんの目的そのものは、斯界の大々となるも何もない。画客の大とならうことさへ――壮年、中年の頃はしらず――近年の小杉さんは考へてゐなかつたらう。思ふに一路絵の仕事の念仏唱名を通じて人生の仏果を得たいと、この長い修行に、心を傾けて来た。
小杉放庵は、当代の高士だと思ふのである。あたら歌舞伎の法燈も羽左衛門を失つたことによつて先づ歴史の一段落と思ふ。わが文人画道の正しい法燈も、当代小杉放庵がなければ、その燈影は殆んど微々奄々たるものだと考へざるを得ない。――小杉さんの存在は貴重なものとなつた。先生の加餐を念ずるや切なるものがある。
近頃の好季節に、小杉さんは、赤倉の、温度も滅多に八十度とは上らない山の中で、鳥の声や、草々、身辺の奇巌、いはなの棲む渓流。その中に悠々自適するのであるが、過ぐる戦災に、東京の家や諸調度の類を失つたことは傷心なるも、就中本を焼かれたことは、ぼくなんかもこれを思ふ度に、困つたことをしたと痛心する。よそごととは思へない。再三北京の瑠璃廠あたりを漁つて過去何年かに渉つて蓄積された、ちよつと二度とは手に入れにくからう本ばかりであるから、弱つたと思ふ。いや、小杉さんとしては、定めしこれが戦災の最大の痛手に相違ない。
小杉さんの老友に公田連太郎先生があるけれども、淡々として公田さん曰、私は多分君より先に死ぬであらうから、死んだら、私の本は、そつくり君のものとしてよい。しかし死ぬまでは貸しておいて貰ひたい、と。
小杉さんはかういふ友達を現実にもつてゐる。或はもつことの出来た、人間最大の幸福の所有者の一人といつていゝ人である。公田さんもまた小杉さんを介して逆に同じことのいへる、当代の高士だ。――思ふべきは、こんな竹林の中の世界が、ちやんと「小杉さん」といふ人の環境裡には、手堅く成り立つてゐるといふ、驚くべく羨むべき昭和二十一年の身辺の現実であらう。
小杉さんはずつと友達運のいゝ人だつたが、それが又(結果から見ると)友達運に薄かつたともいへる不思議な縁をたどつたことは、押川春浪、国木田独歩、中沢臨川、今村紫紅、森田恒友、倉田白羊、(追記、山本鼎)、好友ならざるなし、しかしその一人々々と、ぼつぼつと、別れて来たのだつた。それかあらぬか、森田さんの病篤い時だつた。倉田さんの時にもさうだつたが、その亡くなられる前から、小杉さんは、森田は死ぬなァ、または、倉田は死ぬなァ、死ぬなァと、その人の話の出る度に、その時病ひ篤かつた森田さん、倉田さん達の「死ぬ」ことばかり口に出していつて、僕など、返答に困ること度々だつた。そしてこれは聡慧流水の如しと雖も、小杉さん自ら気がつかれないことには、小杉さんはその都度、実はまだあれに死なれてはたまらないなァ、やりきれないなァ、と心に切々と、深々と、思ひ溢れてゐる。されば逆に言葉に出して、最悪に対してしきりと伏線を張りながら、寂しさを撓めてゐたのである。撓めて堪へきれなかつた小杉さんのジェステュアだつたといへると思ふ。――これらの盟友と次ぎ次ぎに別れて来た苦盃も、小杉さんの人間を慈味に深い、思ひやりの細かな風格としたゞらう。
小杉さんは日光の人であるが、関東は地つゞきのかたぎもあらうか、殊に教養経験の数々、筋々が、皆まつたうの場所を踏んできてゐるところから、全然、僻遠の地の人の風はない。大江戸残党の苦労人といつたやうな滋味のある、イキなオヤヂである。(若しそれイキゴトに至つては、御膝元の鏑木さんよりも、ワカル、悪老、日光の放庵だ。)小杉少年が五百城先生の膝下から東京に出たのは、折柄紫派の波が中心地に盛んな頃だつた。却つて五百城先生はその渦中に投ずることを欲しなかつたといふ。
さうして小杉さんは東京へ出ると、紫派の一敵国であつた不同舎に就いて――いつのことだつたか、後年何かの講演?で和田さん(英作氏)と一緒の席だつた時に、和田さんの講演に次いで小杉さんが一席、こゝにおいでの和田さん達、紫派の諸将に対しては、自分は、クソ!と、目の敵にして対抗したものだつたと、話をされたことがあるさうである。和田さんもまた笑み崩れて聞いてゐて「面白かつたよ」と小杉さんはこの話をしながら、たのしさうで
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