立派に「和画」だと考へてゐる。ここに至つて、美術があたかも返り咲きの花のやうに燦々と咲いた。あるひは二曲屏風に桜の若樹を写したものであるとか、岩とか、鳥とか、殊に方寸尺の小点のものに多い覊旅の心尽しや道釈人物に、津々と筆路の深く美しいものがある。
小杉さんは交りものゝ無い日本画材料によつてこれを描く人となつた。いはうなら「日本画家」小杉となつて、これまでの日本画、洋画双方を踏まへた「未醒」を脱却したのである。一体われわれの言葉の、この日本画家洋画家といふ語彙は、わるいものである。こゝにも奈何せんそんな言葉なり観念があるので、ぼくも持廻つて冗説するものゝ、実は、殊更に「日本画家」放庵となつたとはいはなくとも良い。小杉さんは放庵と号する頃ほひから、とみに純粋な絵かきに再発足したのであつた。――少くともそれ以前の小杉さん、小杉未醒は、日本画にまれ洋画にまれ、絵画そのものに非力を免れたとはいへなかつたものを、こゝに五十歳の峠道をのぞんで「純粋」な絵かきに再発足し、変貌した小杉さんが、日本画家としてだつたといふことは、画人小杉の性格であると同時に、宿命とすべきものだつた。ところが更にわれわれの注意すべく、特に指摘すべき、こゝに、「画人小杉」の上の新しい出来事、これぞ「彼」が「放庵」へ変つた、最大の意義があるのは――筆路にリアリズムの再誕生したことである。
これは「画人小杉」の歴史の上での奇蹟と呼ぶも差支へないであらう。ぼくの考へでは、この奇蹟は、小杉さんが相次ぐ三越で催した毎年の小さからぬ個展のきつかけから、花鳥ものを始めたことがある。その場合が機縁だつたと思ふのである。そしてこれを始めるや小杉さんは――院展における未醒時代の大作油絵のやうに、効果を大幅ではあるが深さは浅く、画面へ浚ふ。――この行り方を採らずに材料の中心を目ざして、筆を立てゝ、真直ぐ食ひ下がることをやり出した。横に塗らずに竪にかくことをやり出した。
洋画法ではこれをやらうとしても「苦手」でやりにくかつたこと、ヨーロッパでは一旦その人の「意誠」を以つて見捨てたこと、リアリズムを、これと四つに組む捲土重来の姿勢で日本画家「放庵」は――ぼくをして敢ていはしめよ。彼はこゝにその志望を達したのである。
写実が絵の仕事の窮極だといふ意味ではない。「絵」はそれとは又別であるが、画人小杉に写実の花咲いた目出度さをいふ
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