。――学而時習之不亦説乎の「習」といふ字は、鳥の雛が巣立たうとして下に玉子の殻(白字)を踏まへながら、不断に空へと羽ばたき羽ばたく象ちだといふけれども、小杉さんは、五百城先生の巣から羽ばたきとんで、先づ草画家の風を得、その未醒時代には、また如何に羽ばたいて、草画家の殻を脱けようとしたらう、更に放庵に代つて、またまた如何に羽ばたいて未醒を脱却したらう。これ「小杉さん」という求道飽くこと無き人の、有り態の姿だつたのである。
小杉さんは先づさしゑ、漫画の大であつて次に華々しい画壇の雄であつて、「大家」で、やがて「元老」で「会員」で……あるが、それは泡沫の事々である。たゞ大切なのは、小杉さんが末始終美術の中の人だつたといふことで、されば「未醒」から「放庵」への不可能に近い再蝉脱も血気壮んな壮年期の旋風の中でその風に浮かずに、見事やり遂げた。――今や平安来る。「放庵」は小杉さんの第三時期、やがてその軌道を以つて小杉さんは「晩年」に移行するのであるが、この道に至つて、行けども行けども窮まらないだらう。
されば何が目に見えて未醒から放庵へ「変つた」点かといへば、明らかなのは「線」の変化である。――一体小杉さんの画歴は、終始「線」の歴史だと見てよいと思ふが、小杉さんの初めの仕事にある線は、その絵の構図本位に(あるひはいふ、装飾意図のために)引かれてゐるものは多くとも、対象の諸相に対して(写実と非写実を問はず)直かに引かれた線は少なかつた。線が締めくくる急所を避けて、たるみ、遊ぶものがある。初期、「未醒」時代の草画、漫画の画式はさう出来てゐたやうである。
石井柏亭氏はその著「日本絵画三代志」の中で小杉さんを叙する件りに、「『降魔』などから見ると第四回文展の『杣』や、その翌年の『水郷』などは大分垢ぬけた処を示してゐた。けれども其人物等の外廓線にはある癖があり、大正元年の『豆の秋』になると何かコマ絵を拡大したやうな感じが勝つてゐた。……」といつてゐるけれども、「豆の秋」には石井さんの慊らないところに同時にこの当時の小杉さんの特技も同生することを見逃せないと思ふのは、「構図」(装飾意図)の成功である。「水郷」の線には初期未醒の線は余程清算されあるひは浄化されて、「たるみ」「遊び」あるひは低徊がない。まつたうに画象を通じて自然から引かれた線になつてゐる。――「この自然」からといふ個処は
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