つの妙な本当だつたか……兎に角そんな一つの見当だつたかも知れない。万はフューザン会の同僚です。フューザン会の同僚では今小林徳三郎が春陽会で同じ釜の飯を食つてゐる唯一となりました。
――それにつけても「ぼく」木村といふものはわれながらヘンなもので、ぼくのオヤヂといふのが、一体西の宇治から出て来た――それだから、ぼくは人にいはれるやうにはエドツコでも何でもない、マガヒモノなんです――一介の素漢貧で、何でも上林といふものから出て、これが向うの長年打続いた茶道風流の家柄だといふことですが、僕はよく知りません。(少くも後年このことを知る[#「知る」に傍点]のは、オヤヂのコドモ共に、間接遺伝?で、その「風流」の血が誰にも彼にも蘇つた現実です。)
ぼくのエドツコなるいはれはそんなわけで、父方関西については少しも知らないけれども、ぼくの母方が、これはまた、江戸・東京以外は全然何のゆかりも知識も無いベランメーでした。半分そこから受継いでゐるものでせう。母方は鈴木といつて、昔山形に小の字を書いた※[#「仝」の「工」に代えて「小」、屋号を示す記号、260−16]商標の、御蔵前の金座に関係のあつたあきんどらしい様子です。今でもぼくの家には、その母方から譲り受けた土蔵の錠前だとか、小判の金質をためす為めの道具だとか、はかり、巾着類、財布、小袖、櫛。そんなものが保存されてゐます。
しかるにオヤヂの方は、何処からいつどう東へ出て来たのか、ぼくなんかは少しも知りません。何でも国元に妻女があつたのを分れて出て来た、然し後にこれを再び東京へ呼んだとかいふ話で、その妻女――つまりぼくの矢張りおつかさんです――これにあつた最初の子供が、栄子といつて、後に紅葉山人の頃に小説を書いた木村曙でした。父方の「風流」の血がこゝからはじまる。曙女史の「母」方の系統については、殆んどよく知りません。(そして申すまでもないが、僕は木村曙とは、母違ひの姉弟であります。)
何しろオヤヂは裸一貫で東京へ出て来ると、その頃が、所謂文明開化の大都会であります。早速いろんなことをやつたやうです。あるひは芝浦に競馬場を作るとか、牛馬屠殺場を設けるとか、従つて牛肉店を作るとか、町屋に火葬場を創るとか、羽田に穴守稲荷を作るとか、品川に鉱泉を掘り当てるとか、……暫らく市会議員をやつて、それから衆議院へ出るとかの用意最中に、ぼくの満十三歳の時(明治三十九年)突然病の悪化で倒れたのです。
ぼくはこのオヤヂさんに、殆んど一度も抱かれたことも無ければ、一緒に何処かへ連れて行かれたおぼえもなし、ろくにものを買つて貰つた記憶も有りません。たゞ何となく常にフロック・コートを着た重々しいオヤヂでしたが、別段それ以上の存在とも思はれず、オヤヂは当時東京市内各区に牛肉店いろはの支店を設置するに当つて、その主立つた店々に、管理人の名実を以つて、婦人を置きました。これを「御新《ごしん》さん」といつた。その一人がぼくの生母です。ぼくはこの木村家(いろは)の第八番目に出生した男子といふわけで荘八の名をつけられ、父は荘平といひました。が、ぼくの生れた店はまた丁度第八番目のいろはで、両国吉川町の角にあつたものです。当時東京市内各区のいろは牛肉店は二十軒以上盛業してゐたと思ひます。いろは四十八軒まで作らうとした気だつたかも知れません。上野のがん鍋も買はうとしてこれは実現しなかつたことなどおぼえてゐます。オヤジはそのいろはの主立つたところ、例へば芝三田の第十九いろはであるとか、深川の第七であるとか、万世橋の第六であるとか、ぼくの第八……それぞれを管理させてある「御新さん」達に、子供が生れると、男女共、これに番号の名をつけたものです。おろく、おくめ、おとめ、士女子、とじ子、おとむ、おとな、荘五、荘六、荘七、荘八、荘九、荘十、荘十一、荘十二、荘十三、といふわけだ。
ぼくのきやうだい[#「きやうだい」に傍点]は、そんなわけで、皆合はせると、三十人以上ありました。
ぼくはしかし平素、その三十人大家族と常に顔を合はせたといふわけではなく、子供達はそれぞれの母と一緒に、それぞれの店に居るわけで、従つてぼくはぼくの一つ腹の兄妹達三人と共に、両国の家に育つたものです。「父」こそ日頃親しまないが、それにしても無いわけでなし、母や祖母とは朝夕親しく、身近く健在で、それに金は有り、商売は陽気なり、雇人は大勢居ます。春は正月から花にかけていつも浮きますし、夏は歌の文句ではないが大川の花火だ。秋は新松《しんまつ》だ、冬は酉のまちだ、歳の市だ……で、いつも家中ごつた返してゐます。それで僕の少年時代の記憶といへば、店は始終忙しいから、大仲好しの祖母と、中の間といふ奥の仏壇の有る居間にすつこんで、この祖母がチビのぼくをつかまへて胴を膝の横に落した爪弾きで「本町二丁目の糸屋の娘」なんといふ端歌を教へたものです。母も祖母も眉毛の無い、お歯ぐろを付けた細面ての、「イキ」といふ身なり形ちの女達でした。――そんな空気の中で育ちました。
だからこれはエドツコが出来上るわけでした。あるひはまた、これも家が始終忙しい為めにコドモは邪魔であるから、毎晩のやうに、義太夫席の新柳亭であるとかまたは色ものの立花家へ付人をつけて寄席にやられてゐました。それが段々とこつちが長ずると、チビのころからの下地ですから、今度は自分で芝居見物に出かけます。中学校の頃には、これも三年迄はマジメにやりましたが四年の色気附くころからはぐれて、学校へはほとんど行かずに、東京各座の立見々々に憂身をやつしたものです。ぼくが年のわりにわれながら芸壇の消息を随分古いことまで知つてゐるのは、これ等のガクモンから来ます。――いふまでもなく、それで童貞でゐるわけはありません。十七だつた年の暮からぼくは男でしたからその頃、中学の同窓がニキビを吹出してあらぬ話をし合ふのがくすぐつたいものでした。
中学校では清水良雄君がぼくの一級上、それが市川猿之助のゐた組で、小学校ではまた僕は田中咄哉州と同級でした。その他、今の望月多左衛門が同窓の先輩で、樫田喜惣次が同級です。亡くなつた林家正蔵なんぞも同窓だつたやうです。中学は駿河台の京華中学、小学校は浅草橋の千代田小学校です。
十七歳から二十一迄は、殊に十八の歳からは家が変つて浅草広小路(第十支店いろは。昔曙女史のゐた家)に移つたので、折柄、中学は卒業するし(明治四十三年)、「年頃」ではあり、家兄の見やう見真似もあつて文学美術に心傾けながら、又その頃の文壇影響も小形なりに受けて、「享楽派」が一匹こゝに出来上りました。よく病気にならずにすんだと、その頃を回想すると、危険な気がします。
中学校は家から離れた土地まで通つたのでしたが、これは下町には学校が少なかつたからで、学校が変つた為めに自然幼な友達とも別れ、それまでの小学校は家から指呼の間の公立ながら、云はば「町内学校」に通つたわけです。当時は私塾、寺子屋の組織も珍らしからず、私立の大堀学校などは両国近くに、聞こえたものでした。とんと一葉の「たけくらべ」の具合は、まだ我々年輩の少年世界に変らない状態でした。
小学校を田中咄哉州と同窓だつたのは、年経て、つゝ井づゝの同窓が末長く同業でゐるといふことは珍らしい[#「珍らしい」に傍点]例なることを段々と再認識します。咄哉州はあにさん[#「あにさん」に傍点]の金チヤンと共に小さいころから器用で、よく浅草公園の花屋敷にあつたダークのあやつりの水族館をボール箱の中に作つて遊びました。ぼくも幼少の頃から絵ずきで、友達との遊びといへば何彼につけ絵に関係のあることばかりでした。極く小さい時分に、毎日のやうに茄子や胡瓜、かぼちやなどが、黒門のところで鎧兜で戦ふ絵を描いたのをおぼえてゐますが、これは恐らく芳藤のおもちや絵、絵草紙から学んだものだつたらうと後に回想されます。
その絵を僕にいつも手をとつて教へたのが、鈴木金太郎といふ叔父でしたが、これがすでにその頃都下に稀の「江戸児」といふべく、膝栗毛の喜多八又は落語に出る与太郎出だちの、イキな人で、又、ケムのやうな人でした。近年この叔父は七十の天寿を完うして私方で亡くなりましたが、晩年はボケて、どう聞いても、彼之れ五十年前に僕に教へた八百屋もの戦争の絵は、忘れてゐて、かいてくれませんでした。幼少の頃からぼくは文弱に流れてゐたやうです。両国ですから、回向院の角力場に程近く、これで弱つたのは、ぼくの名が木村荘某とあるところへ橋向うの行司衆が多く木村庄某なので、場所時分には郵便のとりちがへが盛んだつたことです。――名のことではもう一つ、ぼくの生家にかけて、ぼくは牛屋の荘ちやんといふわけで、牛荘、ニウチヤンと呼ばれて、いゝ心持のしなかつた記憶があります。畢竟日清戦争の名残りがまだぼくの少年時代には消えなかつた一つの兆候でせう。
子供の頃から角力に近いくせに前後に一度もぼくは立ち会つて人と角力をとつたことがありません。たつた一度、フューザン会の時に、会場の読売新聞社の三階で、イヤだといふのに角狂の岸田劉生に挑まれて、かゝへ込まれ、忽ちヤツといふ程投げられた経験があるだけです。
少年時代もそんなわけで、殆んどいつも中の間といふ「いろは」第八支店の奥のうす暗い室に引つ込んだなり、近所の芸妓屋のコを呼んで来て「おんどらどらどら、どらねこさん」といつたやうな遊びをするか、または、田中咄哉州――当時「咄哉州」なんとはいひません。兼次郎のカンチヤン――この連中同士の、いまの樫田喜惣治、即ち鼓の望月の二番息子の久チヤンこと阿部久であるとか、あるひは横山町の根津源、元柳町の樋屋の長ツペエなどゝいふ、かういふ仲間内で、ゴシゴシ鉛筆画をかいてその上にゼラチンを塗つて油絵だといつて喜ぶ遊戯などをしました。店に客が無いと、ぞろぞろ小高い三階へおし上つて、これは当時市内各区の「いろは」牛肉店独得に、五色の窓ガラスで家の見附きが全部飾つてあります。その五色のまゝ、赤や紫の四角な透明の形が畳へおちる真明るい中で喜遊します。一度は高い三階のてつぺんから下の地びたへ、宿無し猫を力一杯放つて、それが地びたでどうなつたのか、真下に客待ちしてゐた人力の車夫に、家へ手ひどく苦情をつけられたことがある。
芸妓屋のコドモたちは、尤も家にぼくは妹がゐましたから、これへやつて来るわけですが、おはつちやんであるとかおせんちやんであるとか、その使ひ走りの下地つ子達が、ぽつくりを履いてぞろぞろやつて来るといふと、ぼくはこのみんなを集めて、人形芝居をやつて見せたものです。出鱈目に番町皿屋敷であるとか本所のおいてけ堀といつたやうな、いゝかげんの狂言をやります。その人形は皆から集めるので、これをいつも苦心して、尻から棒を通して首が動くやうにしたり、衣裳を作つたり用意しておきます。
よくないのはこの仲間で時々お医者ごつこをしたことですが、ぼくが先生で、一人々々をきやつきやといひながら、シンサツするのです。これは明らかに鴎外先生のヰタ・セクスアリスにでて来る世界と同じことでした。
おせんちやんなどは――おないどしでしたが――ぼくが十八になつて吉川町の家から浅草東仲町の店へ移動した頃には、シンサツどころではない、土地の立派なもの[#「もの」に傍点]になつて、よく遠眼にお湯の帰りなどの襟足をくつきりと抜いた、左右につげのびん出しをぴんと張つた颯爽とした姐さん振りを、見かけたものでした。
ぼくは二十一で生家を出た当座、小遣取りに、そんなことを小説にかいて万朝報の懸賞に当つたことがありましたが、小山内さんが見て、あれは荘八君ぢやないかと思つたよといひました。小山内さんなどといふ人は、あゝいつた懸賞小説なども目を通して居られたものと見えます。
ぼくの家の横手がずつと元柳町「芸妓じんみち」です。ぼくの中の間の窓は赤い煉瓦作りで、この通りに向つて開いてゐる。吉田白嶺さんの奥さんが、若い頃に、よくお稽古の帰りなどにその「木村さんの窓を覗きましたヨ」といふ話でした。
窓の下は相当幅の広いドブ板になつてゐて
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木村 荘八 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング