私のこと
木村荘八
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)角店《かどみせ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「仝」の「工」に代えて「小」、屋号を示す記号、260−16]
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………生ひ立ちについて記せといふことですが、生ひ立ち万端すべていつか記しつくしたやうに思ひます。先づ昔の土地についてのことから書くことにしようと思ひます。これも今では移り代りの早さに、文献ものになりました。
――ぼくは十九の歳、すつかり火事にあひましたので、それまでの記念品のやうなものは写真から、絵から、衣類大小、それこそ根こそぎみんな焼いて了つて、大正二年に北山清太郎の撮影した写真からがその後のはじまりです。北山清太郎といへば、画壇に御存知の方も少くないことでせう。その大正二年の秋、ぼくは二十一歳。ぼくはその冬には麻布一連隊へ入営してゐました。岸田劉生が二十三歳。岸田はその頃に結婚してゐたと思ひます。岸田はその頃、仕事としては、岸田の画集の冒頭に出てゐる繃帯した少女の像であるとか、東京郊外の写生品、バーナード・リーチ像等を作つてゐました。
大正二年はその春(三月十一日より三十日まで)フューザン会の第二回展があり、秋にはそれが解散して、十月十六日から二十二日まで、我々は新規に生活社油絵展覧会をその頃神田三崎町にあつたヴィナス倶楽部で開催したのです。生活社の同人は、故岡本帰一、故岸田劉生、及び、高村光太郎氏とぼくの四人です。
これが後に草土社となる母体に相違ありませんが、未だ草土社ではありません。草土社は大正四年の秋から成立したもので、まだ間があります。
神田のヴィナス倶楽部といふのは、そこで生活社のわれわれの会があると、その次ぎに引続いて梅原氏の帰朝展覧会が開かれたところで、当時の東京にはもつけのギャレリーでした。
梅原氏はまだ龍三郎と云はず、良三郎だつた頃。かういふ時分のことを書くとまた話はいくらもありますが……生活社展のころに、われわれは一方「生活」といふ雑誌もやつてゐたが、それと詩を主とする千家元麿・福士幸次郎・佐藤惣之助達の「テラコッタ」といふ雑誌が合併した。家兄木村荘太と高村氏と、岸田とぼくとが、生活同人の方です。
僕は日本橋区吉川町一番地といふところで生れましたが、その後はこの吉川町一番地は両国界隈の何処にあつたものか、今の両国へ行つては、かいもく見当が附きにくゝなりました。僕の家は「第八いろは」といつた牛肉店で、吉川町一番地の一角を占めてゐたのです。二階の窓ガラスに五色の色ガラスをはめて、その家の有様が、明治十何年(欠字)御届とある井上安治の板画「両国橋及浅草橋真図」といふのを見ると、ほとんどぼくの記憶通りの状態に写されてゐますから、相当古くからこの一角にあつた家でせう。オヤヂがいつ時分この家を買つていろはにしたかは知りません。ぼくの兄貴は四つ年上ですが神田で生れたので、その神田橋にあつた家といふのから焼出されて、一家中、両国第八の店へ移つたのです。この家へ移るとすぐにぼくが生れたさうです。
それで極めて幼少の頃、明治三十年見当の両国界隈の様子は、知る由もありませんが、ぼくのものごゝろが付いてからは、吉川町の一角、ぼくの家の軒隣りに、そこから家並みが東へ両国橋の方へ折れ込んで両国広小路の列びとなり――といつても、これも現在の両国広小路(電車通り)とは違ひます。一体両国橋そのものが昔の木橋から見ると、現在の橋はその位置が少し北寄りにずれてゐます。――それで旧両国広小路の軒並みは、角店《かどみせ》のぼくの家から鍵なりに、通りを煙草屋、玩具屋、そば屋の長寿庵、足袋商の海老屋……と順になつてゐます。そこまでが吉川町一番地になつてゐたわけです。
ぼくの家の正面と煙草屋の側面との間には互ひの建築上の関係で空間が出来るわけでしたが、そこを体裁よく埋める為めに大きな一枚板の広告掲示板がとり付けられて、――これは井上安治の真景にはありませんから、後になつて取り付けたものでせう――これに、団十郎の弁慶が巻物一巻をひろげてすつくと立つてゐる図の、煙草のオールドのペンキ絵が一杯にかいてありました。
このオールドのかんばんを日夕親しく記憶してゐます。――そしてこの大かんばんの下に木の駒よせがあつて、柳が植わり、この柳蔭に、いつも供待ちの人力が十台近く並んでゐたものです。車夫が赤に黒筋の二本はひつた毛布をからだに巻いて、冬の空つ風の吹く日など、自分々々の車の蹴込みにうずくまつてゐる光景を、これもまざまざと記憶します。
ぼくの家とその車夫のたまりとのしやあひ[#「しやあひ」に傍点]には何か凹字形のくぼみがあつて、――ぼくは少年のころによくそのくぼみへはひつては、そこだけに珍らしく生えてゐる雑草を楽しんだものでしたが――これに高い一竿の旗ざをが立ち、朝夕、白地に「牛鳥いろは」と朱で書いた小旗をこれへ上げ下げしました。これを家ではフラフといひました。主のしんせつフラフの、どうとかして、その日その日の風次第、といふ歌の実感があるわけです。フラフはフラッグの訛なりや否。
明治十六年版の「袖珍東京みやげ」に
「両国回向院角力。角力は両国晴天十日晴れて逢ふとはうらやまし」
「柳橋。柳橋から小舟ぢやおそいそれより手ばやに人力車」
「百本杭。百本杭まで手に手をつくしこれも恋ゆゑ苦労する」
「両国の花火。日よふを待つてあげたる両国花火猫は鯰がそう仕舞」
吉川町の両国広小路寄り表通りは軒並みの商家になつてゐますが、その裏通り、ぼくの家から後ろの一列一帯は、芸妓じんみちになるので、その鯰が総仕舞する猫の住家です。当時の柳橋芸妓についてはこれもいつぞや述べたことがあるから略します。吉川町の裏通りは略します。表通りは――足袋屋の次ぎが吉川町二番地に移つて、大平になります。大平、細かくいへば松木平吉で、末期ものゝ浮世絵版画の名代の版元です。しかし僕なんかはこれを大ざつぱに絵草紙屋で通してゐましたが、僕の家の裏手からは小路が細く曲りくねつてこの大平のわきへ抜けられるやうになつてゐて夏などはこのドブ板を敷いた高い家と家との間の小路がいとゞ涼しく、大平は真黒な巌丈な土蔵造りですし、ぼくの家は煉瓦作りです。ぼくは広小路へ出るのによくこのしやあひ[#「しやあひ」に傍点]を抜けては、大平の横手の窓口から、暗い家の中で、木版の刷り合せをやつてゐるのを覗いたものです。大平の店先きには絶えず眼先きを変へて、今思へば小林清親であるとか大蘇芳年などの錦絵新版ものが奇麗にかゝつてゐました。中でも未だにありありおぼえてゐるのは、たて版二枚つゞきの、一つ家の鬼婆が片肌脱いで出刃を磨ぎながら、赤のゆもじ一つで上からさかさにつるされてゐる身持ち女を見据ゑてゐる凄い図でした。女は髪を黒々と長く垂らして、真白のからだでした。
大平の隣りが勧工場。これは後に寄席になりましたが、それから、天ぷら屋、金もの屋、松の寿司、砂糖屋、と並んで、吉川町八番地、この界隈が十七世の吉村金兵衛さんといふ家です。これが町内の共睦会の幹事をしてゐました。その他「月番」であるとか昔の「家主」といつたやうの感じ。旧芝居の二番目ものでさういつた役々を見ると、今でもすぐ脳裡に浮ぶのはこの吉村さんの面影です。渡世は印版屋だつたと思ふ。鰹は半分貰つて行く、その「悪」は無かつたけれども。
この印版屋をぼくはインバイヤといつて、家のものにひどく怒られたことがあります。
吉村さんの隣りが絵草紙屋の加賀吉。それから玉屋眼鏡店。蝋燭屋。玉ころがし。金箔屋の岩田。べつこう屋の伊勢七。両国餅の佐久間。松本。ランプ屋。葉茶屋の池田。天ぷら屋の柳橋亭。せんべ屋の紀文。これで吉川町が両国寄りの角にぶつかります。
勿論以上は片々たる記事文に過ぎませんが、危ない記憶や当推量は少しも交へず、大正十三年に元同じ両国辺りに住んだ上原長柏と西野治平、高見沢遠治及びぼく。これだけ寄つて、吉川町、元柳町、横山町、馬喰町……此の界隈一帯にわたる、相当精密な地図を作り、これが僕の家に保管されてゐるのです。
――それに依つて、ほんの一部分の、吉川町区分だけをこゝに記した文献であります。
ぼくは明治二十六年八月二十一日に生れました。中川一政、山口蓬春諸君と同年です。政治家や実業方面ではどういふところか知りませんが、俳優でいへば林長三郎、村田嘉久子等と同年の巳歳で、花柳章太郎が一つ歳下、中村時蔵が二つ歳下です。ぼく達の巳歳からもう一廻り上の巳歳が小杉さんで(放庵子)、小杉さんの更にもう一廻り上の巳歳がアンリ・マチスの歳になります。
話がもどります。フューザン会といひ生活社といつても、今では画壇の昔語りで、若い人々には誰がどうしたことかわからないでせう。それ等の内訳は此の書きものゝ範囲外となるからこゝには記しませんが、フューザン会はその頃銀座にあつた読売新聞社の楼上で開かれました。それからして場所といひ名といひ、今の人達にはヘンに思はれることでせう。生活社――この同人は、前にものべたやうに、故岡本帰一、高村光太郎、岸田劉生、小生の四人。――は神田三崎町のヴィナス倶楽部といふところで開かれたと云つた。この家なんか正に文字通り方丈記の「世の中にある人と住家とまたかくの如し。玉しきの都の中に棟を並べ甍を争へる云々……これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり」。今行つて見ても全然何処にその家が在つたかわかりません。その帰朝展覧会が同じ会場で開かれたものです。梅原良三郎氏は、スマートな蝶結びのネクタイがぴつたり板についた洋服姿で、そこで同氏に初めて逢つた頃のことを思ひ出します。
岸田は此の時分に、意識して――それは、色彩よりは素描の分子を強く生かすといふたてまへから――パレットを制限した七色位を以つて、バーナード・リーチの肖像だとか、郊外風景の写生だとか、繃帯せる少女……と云つたやうな初期の傑作を描いてゐました。
此の頃、硲伊之助が、非常な達筆を以つて水彩がかつた大柄の仕事をしてゐましたが、硲君は十七八歳でしたらう。仲間のうちで一番若い、と云つてもぼくがてんで廿か二十一なんだから――この二十一の少年がまた、その頃丁度美校を卒業しようとしてゐた先輩の万鉄五郎のところへ行くと、万はその頃ほひの僕を後に記して、早熟児木村某、といふわけです。一頃の戦国時代でせう。
ぼくは此の頃、恐らくいつも同じ黒のボヘミヤン・ネクタイの恰好で、平井為成、山下鉄之輔、瓜生養次郎等々、その頃の同志と共に、山下新太郎氏の画室へ、がやがやマチスの話を聞きに行つたことがあります。
それから少しあとだつたと思ふが、初めて土田麦僊と逢つた時に、麦僊氏が「……東京へ来る度びに汽車から見てゐると土が黒くて、段々とあなた方の描いてゐる景色になる。」さういつて、真顔に感服してゐたことがあります。これは岸田の発見したリアリズムを指すものです。
ぼくはその頃にはまだ中川一政と相識らず、椿貞雄とも識りません。生活社といふものがやがて段々と後の草土社になつた母体で、草土社といふものは、大正四年の秋から岸田中心に成立したものです。草土社以前には、当時矢張り銀座に在つた三笠美術店であるとか田中喜作氏の田中屋で個展をするとか、一時は、巽画会の洋画部に関係したことがあります。それものつけに鑑査員といふつけ出しで、岸田が一足先きに、次にはぼくも一緒に、そこで、鍋井克之君あたりの出品ものまで採択したんだから、相当なものです。
ぼくは画壇往来の幾年を通じて、不幸にして、たうとう「他人に審鑑査される味」といふものを身にしみては知らずに過すやうです。
草土社が成立してからは、ぼくはその後ずつと岸田を補佐して草土社諸般の面倒を見ました。芸術的には草土社の殆んど何でもなかつたと思ひますが、万鉄五郎の所謂「木村は草土社にゐなかつたならばもつと早く「木村」になれたらう」といふのは、一
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