度びに汽車から見てゐると土が黒くて、段々とあなた方の描いてゐる景色になる。」さういつて、真顔に感服してゐたことがあります。これは岸田の発見したリアリズムを指すものです。
 ぼくはその頃にはまだ中川一政と相識らず、椿貞雄とも識りません。生活社といふものがやがて段々と後の草土社になつた母体で、草土社といふものは、大正四年の秋から岸田中心に成立したものです。草土社以前には、当時矢張り銀座に在つた三笠美術店であるとか田中喜作氏の田中屋で個展をするとか、一時は、巽画会の洋画部に関係したことがあります。それものつけに鑑査員といふつけ出しで、岸田が一足先きに、次にはぼくも一緒に、そこで、鍋井克之君あたりの出品ものまで採択したんだから、相当なものです。
 ぼくは画壇往来の幾年を通じて、不幸にして、たうとう「他人に審鑑査される味」といふものを身にしみては知らずに過すやうです。
 草土社が成立してからは、ぼくはその後ずつと岸田を補佐して草土社諸般の面倒を見ました。芸術的には草土社の殆んど何でもなかつたと思ひますが、万鉄五郎の所謂「木村は草土社にゐなかつたならばもつと早く「木村」になれたらう」といふのは、一
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