。梅原良三郎氏は、スマートな蝶結びのネクタイがぴつたり板についた洋服姿で、そこで同氏に初めて逢つた頃のことを思ひ出します。
 岸田は此の時分に、意識して――それは、色彩よりは素描の分子を強く生かすといふたてまへから――パレットを制限した七色位を以つて、バーナード・リーチの肖像だとか、郊外風景の写生だとか、繃帯せる少女……と云つたやうな初期の傑作を描いてゐました。
 此の頃、硲伊之助が、非常な達筆を以つて水彩がかつた大柄の仕事をしてゐましたが、硲君は十七八歳でしたらう。仲間のうちで一番若い、と云つてもぼくがてんで廿か二十一なんだから――この二十一の少年がまた、その頃丁度美校を卒業しようとしてゐた先輩の万鉄五郎のところへ行くと、万はその頃ほひの僕を後に記して、早熟児木村某、といふわけです。一頃の戦国時代でせう。
 ぼくは此の頃、恐らくいつも同じ黒のボヘミヤン・ネクタイの恰好で、平井為成、山下鉄之輔、瓜生養次郎等々、その頃の同志と共に、山下新太郎氏の画室へ、がやがやマチスの話を聞きに行つたことがあります。
 それから少しあとだつたと思ふが、初めて土田麦僊と逢つた時に、麦僊氏が「……東京へ来る
前へ 次へ
全30ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
木村 荘八 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング