つて、――ぼくは少年のころによくそのくぼみへはひつては、そこだけに珍らしく生えてゐる雑草を楽しんだものでしたが――これに高い一竿の旗ざをが立ち、朝夕、白地に「牛鳥いろは」と朱で書いた小旗をこれへ上げ下げしました。これを家ではフラフといひました。主のしんせつフラフの、どうとかして、その日その日の風次第、といふ歌の実感があるわけです。フラフはフラッグの訛なりや否。
明治十六年版の「袖珍東京みやげ」に
「両国回向院角力。角力は両国晴天十日晴れて逢ふとはうらやまし」
「柳橋。柳橋から小舟ぢやおそいそれより手ばやに人力車」
「百本杭。百本杭まで手に手をつくしこれも恋ゆゑ苦労する」
「両国の花火。日よふを待つてあげたる両国花火猫は鯰がそう仕舞」
吉川町の両国広小路寄り表通りは軒並みの商家になつてゐますが、その裏通り、ぼくの家から後ろの一列一帯は、芸妓じんみちになるので、その鯰が総仕舞する猫の住家です。当時の柳橋芸妓についてはこれもいつぞや述べたことがあるから略します。吉川町の裏通りは略します。表通りは――足袋屋の次ぎが吉川町二番地に移つて、大平になります。大平、細かくいへば松木平吉で、末期もの
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