坂溜池の旧白馬会研究所へ通ふことにしました。歌や芝居や道楽はふつつり止めました。研究所ではその頃、岡本帰一と三井両氏が幹事で、桜井知足君が牛耳つてゐました。石膏には石橋武助君や、寺内万治郎、耳野卯三郎君などもゐたと思ひます。メートル(黒田清輝先生)には在学中に前後只一回だけ、石膏を見てもらつたことがあります。
 ぼくは研究所へ美校入学の為めの受験準備に通つた筈です。しかしぼくは幸か不幸か――後に万鉄五郎のいへる「早熟児木村某」甚だしく先走りでしたから、ぼくの帳場格子の中の「勉強」はその頃、小説類から変つて、カミユ・モークレールの「仏国印象派論」やギュスタフ・力ーンの「ロダン評伝」になつてゐます。これが却つて、相持ちで、さしては見たが時雨がさ、気はあせれども足はふらふら、と歌の文句にある通り、眼中の梁木《うつばり》となり、ろくに何も出来ないくせに何だかあたりの空気が気に入りません。それで一人で隅つこで「調子の研究」の真似事などをやつてゐました。
 あとで岸田劉生がいふに、あの時分の君は、なんておとなしい奴が研究所にゐるもんだ、と思つて、それで好意を持つたものだヨ、といふことでした。(岸田
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