、ぼくの名が木村荘某とあるところへ橋向うの行司衆が多く木村庄某なので、場所時分には郵便のとりちがへが盛んだつたことです。――名のことではもう一つ、ぼくの生家にかけて、ぼくは牛屋の荘ちやんといふわけで、牛荘、ニウチヤンと呼ばれて、いゝ心持のしなかつた記憶があります。畢竟日清戦争の名残りがまだぼくの少年時代には消えなかつた一つの兆候でせう。
 子供の頃から角力に近いくせに前後に一度もぼくは立ち会つて人と角力をとつたことがありません。たつた一度、フューザン会の時に、会場の読売新聞社の三階で、イヤだといふのに角狂の岸田劉生に挑まれて、かゝへ込まれ、忽ちヤツといふ程投げられた経験があるだけです。
 少年時代もそんなわけで、殆んどいつも中の間といふ「いろは」第八支店の奥のうす暗い室に引つ込んだなり、近所の芸妓屋のコを呼んで来て「おんどらどらどら、どらねこさん」といつたやうな遊びをするか、または、田中咄哉州――当時「咄哉州」なんとはいひません。兼次郎のカンチヤン――この連中同士の、いまの樫田喜惣治、即ち鼓の望月の二番息子の久チヤンこと阿部久であるとか、あるひは横山町の根津源、元柳町の樋屋の長ツペエな
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