でした。その他、今の望月多左衛門が同窓の先輩で、樫田喜惣次が同級です。亡くなつた林家正蔵なんぞも同窓だつたやうです。中学は駿河台の京華中学、小学校は浅草橋の千代田小学校です。
十七歳から二十一迄は、殊に十八の歳からは家が変つて浅草広小路(第十支店いろは。昔曙女史のゐた家)に移つたので、折柄、中学は卒業するし(明治四十三年)、「年頃」ではあり、家兄の見やう見真似もあつて文学美術に心傾けながら、又その頃の文壇影響も小形なりに受けて、「享楽派」が一匹こゝに出来上りました。よく病気にならずにすんだと、その頃を回想すると、危険な気がします。
中学校は家から離れた土地まで通つたのでしたが、これは下町には学校が少なかつたからで、学校が変つた為めに自然幼な友達とも別れ、それまでの小学校は家から指呼の間の公立ながら、云はば「町内学校」に通つたわけです。当時は私塾、寺子屋の組織も珍らしからず、私立の大堀学校などは両国近くに、聞こえたものでした。とんと一葉の「たけくらべ」の具合は、まだ我々年輩の少年世界に変らない状態でした。
小学校を田中咄哉州と同窓だつたのは、年経て、つゝ井づゝの同窓が末長く同業でゐ
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