像であるとか、東京郊外の写生品、バーナード・リーチ像等を作つてゐました。
 大正二年はその春(三月十一日より三十日まで)フューザン会の第二回展があり、秋にはそれが解散して、十月十六日から二十二日まで、我々は新規に生活社油絵展覧会をその頃神田三崎町にあつたヴィナス倶楽部で開催したのです。生活社の同人は、故岡本帰一、故岸田劉生、及び、高村光太郎氏とぼくの四人です。
 これが後に草土社となる母体に相違ありませんが、未だ草土社ではありません。草土社は大正四年の秋から成立したもので、まだ間があります。
 神田のヴィナス倶楽部といふのは、そこで生活社のわれわれの会があると、その次ぎに引続いて梅原氏の帰朝展覧会が開かれたところで、当時の東京にはもつけのギャレリーでした。
 梅原氏はまだ龍三郎と云はず、良三郎だつた頃。かういふ時分のことを書くとまた話はいくらもありますが……生活社展のころに、われわれは一方「生活」といふ雑誌もやつてゐたが、それと詩を主とする千家元麿・福士幸次郎・佐藤惣之助達の「テラコッタ」といふ雑誌が合併した。家兄木村荘太と高村氏と、岸田とぼくとが、生活同人の方です。

 僕は日本橋区
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