。梅原良三郎氏は、スマートな蝶結びのネクタイがぴつたり板についた洋服姿で、そこで同氏に初めて逢つた頃のことを思ひ出します。
岸田は此の時分に、意識して――それは、色彩よりは素描の分子を強く生かすといふたてまへから――パレットを制限した七色位を以つて、バーナード・リーチの肖像だとか、郊外風景の写生だとか、繃帯せる少女……と云つたやうな初期の傑作を描いてゐました。
此の頃、硲伊之助が、非常な達筆を以つて水彩がかつた大柄の仕事をしてゐましたが、硲君は十七八歳でしたらう。仲間のうちで一番若い、と云つてもぼくがてんで廿か二十一なんだから――この二十一の少年がまた、その頃丁度美校を卒業しようとしてゐた先輩の万鉄五郎のところへ行くと、万はその頃ほひの僕を後に記して、早熟児木村某、といふわけです。一頃の戦国時代でせう。
ぼくは此の頃、恐らくいつも同じ黒のボヘミヤン・ネクタイの恰好で、平井為成、山下鉄之輔、瓜生養次郎等々、その頃の同志と共に、山下新太郎氏の画室へ、がやがやマチスの話を聞きに行つたことがあります。
それから少しあとだつたと思ふが、初めて土田麦僊と逢つた時に、麦僊氏が「……東京へ来る度びに汽車から見てゐると土が黒くて、段々とあなた方の描いてゐる景色になる。」さういつて、真顔に感服してゐたことがあります。これは岸田の発見したリアリズムを指すものです。
ぼくはその頃にはまだ中川一政と相識らず、椿貞雄とも識りません。生活社といふものがやがて段々と後の草土社になつた母体で、草土社といふものは、大正四年の秋から岸田中心に成立したものです。草土社以前には、当時矢張り銀座に在つた三笠美術店であるとか田中喜作氏の田中屋で個展をするとか、一時は、巽画会の洋画部に関係したことがあります。それものつけに鑑査員といふつけ出しで、岸田が一足先きに、次にはぼくも一緒に、そこで、鍋井克之君あたりの出品ものまで採択したんだから、相当なものです。
ぼくは画壇往来の幾年を通じて、不幸にして、たうとう「他人に審鑑査される味」といふものを身にしみては知らずに過すやうです。
草土社が成立してからは、ぼくはその後ずつと岸田を補佐して草土社諸般の面倒を見ました。芸術的には草土社の殆んど何でもなかつたと思ひますが、万鉄五郎の所謂「木村は草土社にゐなかつたならばもつと早く「木村」になれたらう」といふのは、一
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