した。その他「月番」であるとか昔の「家主」といつたやうの感じ。旧芝居の二番目ものでさういつた役々を見ると、今でもすぐ脳裡に浮ぶのはこの吉村さんの面影です。渡世は印版屋だつたと思ふ。鰹は半分貰つて行く、その「悪」は無かつたけれども。
この印版屋をぼくはインバイヤといつて、家のものにひどく怒られたことがあります。
吉村さんの隣りが絵草紙屋の加賀吉。それから玉屋眼鏡店。蝋燭屋。玉ころがし。金箔屋の岩田。べつこう屋の伊勢七。両国餅の佐久間。松本。ランプ屋。葉茶屋の池田。天ぷら屋の柳橋亭。せんべ屋の紀文。これで吉川町が両国寄りの角にぶつかります。
勿論以上は片々たる記事文に過ぎませんが、危ない記憶や当推量は少しも交へず、大正十三年に元同じ両国辺りに住んだ上原長柏と西野治平、高見沢遠治及びぼく。これだけ寄つて、吉川町、元柳町、横山町、馬喰町……此の界隈一帯にわたる、相当精密な地図を作り、これが僕の家に保管されてゐるのです。
――それに依つて、ほんの一部分の、吉川町区分だけをこゝに記した文献であります。
ぼくは明治二十六年八月二十一日に生れました。中川一政、山口蓬春諸君と同年です。政治家や実業方面ではどういふところか知りませんが、俳優でいへば林長三郎、村田嘉久子等と同年の巳歳で、花柳章太郎が一つ歳下、中村時蔵が二つ歳下です。ぼく達の巳歳からもう一廻り上の巳歳が小杉さんで(放庵子)、小杉さんの更にもう一廻り上の巳歳がアンリ・マチスの歳になります。
話がもどります。フューザン会といひ生活社といつても、今では画壇の昔語りで、若い人々には誰がどうしたことかわからないでせう。それ等の内訳は此の書きものゝ範囲外となるからこゝには記しませんが、フューザン会はその頃銀座にあつた読売新聞社の楼上で開かれました。それからして場所といひ名といひ、今の人達にはヘンに思はれることでせう。生活社――この同人は、前にものべたやうに、故岡本帰一、高村光太郎、岸田劉生、小生の四人。――は神田三崎町のヴィナス倶楽部といふところで開かれたと云つた。この家なんか正に文字通り方丈記の「世の中にある人と住家とまたかくの如し。玉しきの都の中に棟を並べ甍を争へる云々……これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり」。今行つて見ても全然何処にその家が在つたかわかりません。その帰朝展覧会が同じ会場で開かれたものです
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