の仕事であつて、日本画ものは、恐らく大正九年以前に遡つては発見しにくいだらう。正確なことははかりにくいまでも「辛酉晩春」署名の猫を和紙半折に描いた白描あたり、大体これ等を、故人の日本画式の筆始めと見て良いと思ふ。
この絵には署名こそ「劉生」とあれ、落款の印章はまだ作られてゐなかつたと見えて、墨書した劉生の下に朱書きで劉の字の左書きが文様風に添へてあるのである。
ぼくはその時分にたしか日本橋仲通りの骨董店あたりで、岸田が沈南蘋の猫を描いた画幅を求めた事をおぼえてゐる。しかしこれは偽物であつて、岸田はやがてこれを出して了つたけれども、一時、この沈南蘋には彼は傾倒してゐたものだ。岸田の支那画に対する開眼もこれから来たと云つて良いだらう。そしてその「手習ひ」をしきりとやつてゐた一頃がある。
岸田は後年に及ぶにつれて漁画癖につのり、遂には劃期的な初期肉筆浮世絵ものゝ珠玉を骨董店の塵の中から発見する。漁画の本格に味到したけれども、そもそも始めは、右にいふ南蘋の偽物を掴んだあたりが初穂であつた。この時掴んだものは偽物であつたとは雖も、岸田のその「偽物」を通じても鑑賞し且憧れた東洋画の一筋は、これぞ命をかけた真摯のもので、南蘋から明清の文人画に入り――※[#「りっしんべん+軍」、第4水準2−12−56]南田の、これもたちの良くない一作を入れて、忽ち放したこともあつた――元明の花鳥に入り、殆んど同時に一方浮世絵版画に入り、進んでその肉筆ものに驀進し、これ等の過程をその都度親しく見てゐたぼくからいへば、彼は古人の画幅をあさり出すや、恰も滝が落ち口を見付けてどつと迸り下るやうな、その勢すさまじいものがあつた。彼は古人の遺業を通じてそこに展開される一幅々々づつの美の舞台面にわれを忘れて眺め入り、陶酔したのである。
そして酔ふては、祥瑞の陶器を手に入れゝば、たちどころに祥瑞文様の絵が彼に生れたし、丹絵は彼に丹絵風の表現をさせ、それから元明画風の花卉静物を好んで作り、初期浮世絵風の画境を出現した。最後に初期浮世絵の屏風の人物達は、岸田劉生その人を遂に屏風の山へ引入れて了つて、彼に絵を描かせるよりも、酒を飲ませる生活が始まつた。
――ぼくはこれも亦岸田の非凡な美術魂が敢てさせるところと、故人に敬意を表するに吝でない。美術の行くところとあればどんな細道へも彼は水のやうにしのび込んで、憑かれた心を持つた男であつた。
宋画の寒山拾得を見れば彼は寒山拾得を描いた。ぼくが版の極く悪い十竹斎画譜を求めて来たことがあつたが、一眼それを見るや、彼はぼくに懇望し、殆んど強要せんまでにしてその九冊本を急ぎ鵠沼へ持返り、やがて彼の画室へ行つて見ると、沢山に半折の十竹斎風なる試作(日本画)が描けてゐたことがある。
そしてモティフの角度こそそれは十竹斎風なれ、その角度を通して表現された美術は、所詮「岸田劉生風」のもので、何よりも新鮮で、求道に競ひ立ち、筆端に愛情と発見のこもる、面白い生きた仕事振りだつた。
同じやうにして、彼は明画風の籠中果実を描いたし、銭舜挙風の花を描いたし、元画風の瓜を描いたし……美術を追求し追求して飽くを知らなかつた、心豊かな男である。常に岸田劉生といふ画人は。
彼は一度笑談半分に豪語してぼくにいつたことがある。「オレは日本画を描いては皆売つちまつたよ。稽古の絵も何も彼も日本画は残らず売つちまつた」と。恐らく事実その通りだつたらうし、また「稽古の日本画」と雖も彼のものは、とうに美術の風を備へてゐたゞらう。
何故ならば岸田が日本画式を手がけたのが前記の如く既に鵠沼の後期からで、彼の鵠沼後期といへば、その前に元気旺盛な代々木時代――郊外風景や肖像、静物の、草土社創始時代――があり、次いで沈痛な新町時代――壺の静物等――がある。その後の、最盛期岸田であるから、この美術の人に描かれる画式に、たとへ初めは多少技術的不備はあらうとも「絵にならない作品」などあらう筈はなかつた。理の当然である。
ぼくの――今見ると汚ない悪い版のものである――十竹斎本に基づいて試作に描いた岸田の古い日本画も、そのまゝ「売つちまつた」ものかも知れなかつたが、それを今所蔵してゐる人は、ぼく思ふにそこに絵のウマイ、マヅイよりも、美術を所詮感じて、いゝものを持つてゐる喜びにきつと満足してゐることだらう。
さういふわけで、彼は日本画式へいはゆるエスプリから直接法に悟入したので、技術は瞬くうちに征伏され統御されて、進歩の驚くべきものがあつた。殊に南画風ツケタテの作品は、彼元来達腕の画人であつたから、十枚描けば十枚だけに忽ち手に入つた面白い出来があつたし、結局岩絵具こそ使駆するに至らなかつたが。
(後記)彼の後期に属する慎重な静物ものは、仕事の格として、充分、見るものに襟を正さしめる
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