、存外またこんなことが「生きた評伝」には匂ひとなるものだらうから。
この天下茶屋の瓢々亭といふ家は今も在るさうである。ぼくはその家は知らないのだが、岸田といふ男は一体相許した相手に対して常に人なつこい、寂しがりといへる、童心満々の男で、晩年は殊にさういふ瓢々亭といつたやうな飲み屋で小会することを好んだ。そして興が乗ると、即席の五題話など始めるかまたはいたづら描きを始めるのである。始めたが最後、徹底するまで筆をやめない。恐らく今何万円とかいはれてゐるといふ某家の屏風なども、酔余、一気に描かれたタダの作品だらう。「化けものづくし」も亦あとからあとから興が乗つて、にこにこ笑ひ通しながら、片つぱしからこの奇画を描き上げたものと思ふ。――ぼくはこのモティフについて岸田ならでは求められぬ岸田その人から出た「独創」のあることを指摘したいのだ。尤もこの作は所詮戯画であるから意味は小さいにしても、質として全く同じこの独創味が、岸田といふものをあの美術人に仕立て上げた、根源は同じものが、こゝによく出てゐると思ふのである。
そしてそれは岸田の経過した文化的教養といつてもいゝものかも知れないと思ふ――切ればそこから岸田の血の出る程、彼の身についた教養の意味で、学んで容易く得られるものでなく、突差に化けものを九つまで描いて、十はかかずに、番町皿屋敷を利かせる(これはぼくの推定であるが、さうに相違ない)なども、岸田の一つの血である、この化けもの九体のうち、窓からのぞく化けもの、つきぢ河岸の河太郎、てんが茶屋の笑ひ地蔵、破れ三味線の化けもの、この四つ以外のものは、悉く今そこへ初めて生れたばかりの独創満々たる、生きた化けものである。――岸田のその時の頭具合でなしには絶対に世の中へ化けて出る手だてのない、新鮮な化けもの達である。――この「化けもの達」といふ字を「美」と替へても、質の同じ意義では、岸田の張り切つた仕事の場合を説明せんに、丁度これが良い手がかりだといふ意味で、ぼくはいふ。
恐らくその瓢々亭の席にそろそろ料理が乏しくなつた頃ほひ、このいたづら描きが始まつたのだらう。そこで第一の誰も今迄に夢想だにしたことの無い奇抜な怪物が現はれる。同じ天下茶屋の住人だつた高見沢遠治はおほだんだつたか、それともそんな話でもその席であつたか、これがまた高見沢遠治の口をとんがらかした似顔で現はれてゐるのは、この酒はすつぺえとでもいつたのが、岸田にたちまち霊感したのだらう。土佐堀の油なめ小僧といふのは画商森川喜助である。森川君の酒席におけるおとなしやかの面貌、生けるが如し。
岸田は蚕が糸を吐くやうに喜々として之らの絵を作りつゝ、面白くて面白くて仕方がなかつたに相違ないと思ふ。この絵の紙背からその岸田の喜々たる笑ひ声を如実に聞くやうに感じ、ぼくはこの化けものづくしを見てゐるうちに、昔懐しく、あとで大変寂しい心持となつた。
後記
この文章は、雑誌に掲載された頃から故人の日本画についての手引になるといふので、画商の専門家の間などに特に読まれると聞くので、責任も一しほ深いから、わざと一通り原文のまゝここに再録して、後記、即、「訂正」を添へるものである。
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一、岸田が岩絵の具を使はなかつた[#「使はなかつた」に傍点]と読める工合にかいた個所は、「使ひ馴れるには至らなかつた」と改めたい。岸田は岩絵の具を使つてゐる。(勿論、岩絵の具の使つてある真作があるのである。)只この彩料世界はまだ自由自在といふまでマスターするに至らない中に倒れたのと、元々をして岩絵の具を要求する画境は行つてゐないのとで、膠など完全でなく、表装の為に水をくぐると、そのまゝ落ちた岩が大分有る。――画面にさういふ跡があれば、右に基づくものである。作品にとつては殆んど画品の障りとならない。
二、この墨は曾て一度河出書房から出た岸田の「美の本体」といふ本の表紙に、その絵模様の載つたことのある「永楽初造」明墨であるが、極上質のもので、恐らく元のまゝ岸田家に襲蔵されるものだらう[#「恐らく元のまゝ岸田家に襲蔵されるものだらう」に傍点]。といふのが、石井鶴三の求めたものといふのは、それが矢張り岸田と同じ時分で、品は違ふ、同形式、同質のものだつた。石井鶴三の話には(墨商も双方同一人であつたが)、墨商が岸田方へ行くと、岸田は当時猶墨には殆んど手を出さなかつた「初心」なるに拘らず、いきなり品物の最上品を取つたので、その買いつぷりに、墨商は感服して、石井鶴三に岸田のことを話したと云ふのである。鶴三はすでにその時墨の道は古かつた。
三、岸田を銀行のむすこと思つたといふのは正に一口噺にもならぬ滑稽譚であるが、周知のやうに、岸田の父君は、明治時代の先覚の一人として著聞する吟香先生である。岸田劉
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