ハイカラ考
木村荘八
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)上背丈《うわぜい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#歌記号、1−3−28]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)代る/\
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「ハイカラ」という言葉があるが、今の若い人達には既にこの言葉はピンと来ないようで、今の人達にはこれよりも「モダン」であるとか「シック」という言葉がよく通じるようだ。
「モダン」なり「シック」についてはここには触れず、それは又別にいずれ考えて見たいと思っているが、「モダン」「シック」「ハイカラ」。元をただせば、これはいずれも同意語で、僕の考えでは、遡れば幕政の頃の「イキ」というに連なる、年代譲りの言葉――言葉[#「言葉」に傍点]であると同時にその世相風俗――と思っている。速断の誤解さえ警戒すれば「同じもの」と云っておいてもよいだろう。ただその「年代譲り」というところに、変化もあれば、それぞれの特質もあって、四者到底「同じもの」ではない。
ここには、その中から「ハイカラ」を取り出して、その特質を一応検査してみたいと思うのである。
ついては、これは、さきの「美人変遷史」に対する、「美男変遷史」…ではあるけれども、「美人」うつくしいひと[#「うつくしいひと」に傍点]と「人」にかけて大きく云っても、その「人」は「女の人」のことである。「男」の世界に対しては、「美男診断」と云ったところで、個々の「好男子」を数え立ててもイミはない。
明治の新派俳優の伊井蓉峰は、その名の「いい容貌」とあった通り、一世の美男を謳われたものだったが、もし伊井が「美男」・つつころばし[#「つつころばし」に傍点]かぎりのもので、晩年の阿久津(二筋道)の芸はなく、若い頃真砂座の近松ものを掘り返した頃とか、中頃さかんに白く塗って「不如帰」の川島武雄で泣かせた頃、これをもつて終った人だったとすれば? さしたる芸者[#「芸者」に傍点]ではなかったろうと思うのである。
晩年の阿久津は、その時すでに伊井は必ずしも「いい容貌」ではなく、その顔に皺もふえ、のどは筋張って、もはや「老い」にむしばまれた、云おうなら「醜男」になりかかったものだったにかかわらず、むしろその人態[#「人態」に傍点](形而上)をもって、老伊井の演じた「阿久津」は至芸となり、二筋道はあたって、その頃ぺちゃぺちゃだった新派はこれによって盛り返した。
「美人」と「人」全体にかけて一般に云っても、その中に「男」は含まれないが、逆に男子は、年とって、醜くくなってから、かえって「美人」となり得る。――こう云ったら綺語に陥ちるだろうか。大きにそれは「男」の「曳かれものの小唄」と一蹴されれば、それまでのこと。
幕政の頃――それは明治も初年時代まではつづいた――今から概括して「イキ」と名づけるのが便宜の美感の方法があって、男女共にこのイキの坩堝の中から、「美人」が生れ、或いは「美男」のでき上ったことがあった。又ひところ、「イキで、こうとで、ひとがら」と云われた「いいおとこ」「いいおんな」に関する明治の合言葉があったけれども、この「こうと」は「高等」で、こんなところに高等[#「高等」に傍点]と当時はやりの「漢語」を持ち出したところに、「年代」を見るべく、この「こうと」には同時にまた「コート」にかかったかけ言葉の意味があった。
明治初年には、その頃ぼつぼつ「洋物」が売れた、と云っても、一番よく出たものは、服装の上ッ張りに着られる廻し合羽、やがてトンビと云われたもの、あれだったそうで、両羽も上背丈《うわぜい》も短かかった。主として英国式裁断のインバネスである。――これから改良変形されて、内国製和服用のコートが出て来たが、明治も中頃の三十年代へかかると、女ものの外出着に総ラシャ、緋裏のいわゆる「東《あずま》コート」は、なくてならない、全盛のものとなった。
その前後のことである、「イキで、こうとで、ひとがら」と美男美女をそやす[#「そやす」に傍点]合言葉の行われたのは。
ひとがらの「がら」にコートの「がら合い」がかかっていたことも、万事イキ[#「イキ」に傍点]な連中の云い出しそうな、そつのない言葉と見るべきである。
この東コートを羽織ったなり[#「なり」に傍点]に、着ものの衣紋をぐっとぬいて、大一番の丸髷を大々と結び上げた女姿が、「イキ」と呼ばれるにいたり、旧美感のイキ、或いは粋、或いは「江戸前」と云われたものはすたれ、しかしすたれたと云っても、「美感」そのものがすたったわけではなく、むしろそれ[#「それ」に傍点]はより活溌な[#「活溌な」に傍点]新しい美感の方向へと進路を転じたので、やがて交代に現れた美感の方法が、「ハイカラ」と呼ばれる新時代のものだった順序である。
「ハイカラ」は明治の後年期十年間ばかりのところに指摘される、新規な「美男の坩堝」、その製造方法であるが、およそ「明治」のことと云えば何でも「明治天皇」にもとづかないものはないように、「ハイカラ」といえども、もし明治天皇が明治五年に洋装なさらなかったならば、日本になかったものだろう。御一新にあたって断然陛下が散髪なさり洋装なさったことは、「日本」全体がそこから変貌して髪を切り・服を改めたことだったので、その天皇の御意見、「夫唱婦随」もあったことだろう。それよりも更に能動的・直接には、侍従の島団右衛門あたりの御すすめによって、率先して[#「率先して」に傍点]、おすべらかしお美しかった皇后が、お馴れにならないローブ・デコルテの洋装に身なりをお改めなすったのは、――辱けなや、開国文明のためである。
明治天皇は十八歳のお年(明治二年)までに、東海道を往復数度なさったが、その時のお姿が、白羽二重のお召物に、緋の袴を召されて、お馬だった。
明治天皇のお馬の道中には、片脇に侍臣が付き添うて、馬上の陛下に紺蛇の目に銀の蒔絵をしたお傘をさしかけたということである。
今から九十年前に陛下が江戸――この東京へ先ずおいでになった時には、そういう「お国振り」とも云おうか、われわれ、今にして思えば、千年も前のようなお姿で、東下りなさったのであったが、明治四年になると散髪令一下されて、参議連の木戸、大隈、伊藤等の頭上から一瞬にしてちょん髷がなくなり、つづいて日本中で切り下されたちょん髷の数々は、日に日に無数だったことだろう。横浜ではその頃から、「仏蘭西五十三番」にヂバンという商人があって、洋服、靴、帽子、手袋等、アチラの装身具一切をあきなったという。
時は少し下るが、数奇者の――そしてモードに対して常にカンの鋭かった――音羽屋五代目菊五郎は、好んで横浜(ハマ)まで洋品の買いあさりに出かけ、或る時は長靴を求めて、意気揚々とそれを履いて「小屋」入りしたことがあったという。
二十一歳におなりになると、それからは明治天皇は、公式服装の場合は一切、出るにも入るにも洋装となさった。千年の緋袴白袍は深々と蔵に埋められて、歴史の彼方に去ったのだ。
ハイカラという言葉は、英語の high collar の訛りであることはいうまでもなく、発音が「ハイカラ」とつまって、日本語になった。元は「ハイ・カラー」と原語なみにカラーを引張って云ったものである。
ハイカラにかぎらず、これは何によらず外来語が「日本語」に生れ代る[#「生れ代る」に傍点]場合には、発音のつまる[#「つまる」に傍点]ことは言葉の経験するところで、modern にしても、モダーンと引張るうちはまだ半洋半和である。「モダン」とつまるに及んで、日本語となり、同時にその世相風俗も日本の板につく。ticket という言葉などこれが「ティッケット」と、よく云われるように舌を噛みそう[#「舌を噛みそう」に傍点]な発音で云われる間は、まだまだ日本のものではない。これが日本語となり、同時にそれが日本の生活へ融け込もうためには、思い切って「テケツ」にならなければならない。
世相の変遷はこう云った言葉の移り変りをキャッチすることによって、先ず端的にその「急所」を掴まえられるように思うけれども、「ハイカラ」についてこれを調べてみると、東京日日新聞の九千号記念紙に次のような新刊書の広告文が掲載されていて、この日附は「明治三十四年十月四日」である。
[#ここから罫囲み]
滑稽なる日本
[#地付き]全一冊 彩色表紙
[#地付き]定価郵税共金二十銭
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[#ここから1字下げ]
著者は「滑稽」の二字、我社会の総べてを形容し得可しとなし、而して其標本はハイカラーなりとし、漫罵冷嘲、縦横翻弄して滔々たる高襟者流をして顔色無からしむ。真に痛絶稀に看る快心の著。
[#ここで字下げ終わり]
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一手発売所
東京神田錦町二丁目六
[#地付き]新声社
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何も自分がたまたま持っている古新聞を文献めかしく振り廻す所存はないのだが、これを一つの重要な「鍵」とは考えるので、少くも「ハイカラ」なる明治以来の一つの言葉、従ってこれに裏づけとなる一つの世相史上のテーマは、その胎動から誕生にかけての年代[#「年代」に傍点]を「明治三十年」見当と見てよいことは、間違いでないと同時に、そのハイ・カラーが「ハイカラ」と転じていよいよ「日本的活動」とも云えるものを活溌にしはじめた年頃は、新聞紙上に右のような広告文字の出る時分から、と云ってよいと思われる。
「広告文」には、余り一般にわからない字や言葉は使わないものである。――昭和二年に、大槻如電編輯の『新撰洋学年表』の改版広告が新聞へ出た時、割註を入れて、「御存知の方は御存知なるべし」とあったことがある。そういうことはあるにしても――現在で云って例えば、ロード・ショウ、アベック、ニュウ・ルック等の言葉(及びその世相)は、これぞ又「御存じの方は御存じ」で、前々から云われはした言葉ながら、新聞広告の一般にこれを発見するようになったのは、遠くないことである。この節では一行広告に「アベック旅館云々」は珍らしからず、「靴のニュウ・ルック」とあって、その絵入りの広告なども見かけることがある。これらの言葉や世相もまた、かくて日本化[#「日本化」に傍点]するものと見てよい。
『滑稽なる日本』という本の明治三十四年に新聞へ出た広告文字の中には、「高襟者流」という字、これをハイカラーとよむよみかた[#「よみかた」に傍点]と、やがてそれが「ハイカラ」につまろうとする暗示と、この新語に対する二通りのよみ[#「よみ」に傍点]がそのまま生《なま》で誌されているのは、当時まだ high collar が充分日本式にこなれた「ハイカラ」でもなければ、と云って西洋譲りの「ハイ・カラー」ばかりでもない、この間の過渡を示すもので、巧まずしてよく時代[#「時代」に傍点]を語っている。――広告文の現役性がなす面白さがここに見られる。
翻ってこの言葉がそもそも使われ始めたのは[#「始めたのは」に傍点]いつ頃からだったろうというに、それについては、石井研堂氏の明瞭な考証が『明治事物起原』の人事のくだりに出ているのである。
「ハイカラの始」と題して、「明治三十一、二年の比、毎日新聞の記者石川半山、ハイカラーといふ語を紙上に掲げ、金子堅太郎のごとき、洋行帰りの人々を冷評すること度々なりし。泰西流行の襟の特に高きを用ゐて済まし顔なる様、何となく新帰朝をほのめかすに似て、気障の限りなりければなり。――然るに三十三年八月、築地のメトロポールホテルに於て、竹越与三郎の洋行の送別会を開きたる時、来客代る/\起ちて演説を試みたりしが、其の際に、小松緑起ちて、ハイカラーといふに就て一場の演説を試み、世間多くは、ハイカラーを嘲笑の意味に用ゆれども、決して左には非ず。ハイカラーは文明的
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