にして、其人物の清く高きを顕はすものなり。現に、平生はハイカラーを攻撃する石川氏の如きも、今夕は非常のハイカラーを着け居るに非ずや云々と滑稽演説を試みて、満場の哄笑を博したり、其の記事、各新聞紙上に現はれて以来、ハイカラーといふ語の流行を来すに至れり。」
「ハイカラ」ははじめ多分に揶揄難評の言葉ではあっても、賞讃の意味は少しも含まない、生意気な、軽佻浮薄なものの代名詞として、明らかに悪意のあるワルクチに出発したものである。これがいつか一転して「洒落もの」の意味となり、これに対して追従憧憬の気分も徐々に加味されると共に、三転して、あまねく「新しいもの」を目指して云う言葉となり、その風俗となりながら「……社会上下を通じて、一般の流行語となれり。特に可笑しきは、小学の児童まで、何某はミットを持ちたればハイカラなり、外套を着たればハイカラなりなど言ふこと珍しからず。罪のなき奇語の、広く行はれしものかな。」――と、石井研堂氏は書いておられる。
今これを読むと、又々、この研堂氏の考証そのものが生きた文献[#「生きた文献」に傍点]となるのは、研堂氏の『明治事物起原』は明治四十年の上梓であるから、以上の文章は前数年のところで、誌されたとして、刻々に移り動く世相をそこに見ながら、「罪のなき奇語の、広くも行はれしものかな」と現在調に嘆じて、結ばれた。即ち明治三十年早々から明治四十年にかけて、この言葉が、盛んに転動しながら、澎湃とうごめくありよう[#「ありよう」に傍点]を、文献の陰に、目に見るようである。
やがてこの言葉は「ハイカる」と云った工合に語尾の活用を起して動詞となって働き出し、江戸弁に「ヘエカラ」と訛っても通用するようになり、「貧乏ハイカラ」「田舎ハイカラ」等の派出語も従えつつ、――僕の考えでは、結局日露戦争末期に、女の飾髪の廂髪、――その高大に突き出した有様をぬからず当時の記憶に生々しかった旅順の戦跡になぞらえて、「二百三高地」と呼ばれた。この二百三高地・廂髪が一口に「ハイカラ」と呼ばれるに至って、一昔前に男ぞろいの、その伊達者達の、卓上一夕の奇語から起った言葉が、思いきや、女人の髪の結いぶりへ転化し、そしてそこに見事な「結晶」を作ったと思う。世相史の上の、面白い特殊な一例だったと思う。
今日から見れば、「ハイカラ」も既に――女の髪の結いぶりの「ハイカラ」もすべてを籠めて――言葉としてとうに「死語」の一つである。(その実体も死滅したこと、勿論。)今日ではハイ・ネック high neck というより[#「より」に傍点]伊達な、そして洋語そのものとしても意味の幅の広い通語は、人が(主として若い女性)使っても、ハイカラ、或いはハイ・カラーは、もはや云わない。ただわれわれ年輩の旧人が、シックなハイ・ネックをも「ハイカラ」と呼んで、笑われることがあるだけである。
われわれ年輩の旧人は、少年の頃に、
[#ここから2字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]いやだいやだよ、
ハイカラさんはいやだ、
頭の真中にさざえの壺焼
なんてマがいんでしょ
[#ここで字下げ終わり]
という歌を、好んでうたった。
「ハイカラ」は欧化風俗のことであるから、この「欧化」という筋骨を度外視しては考えられず、欧化そのものについて考える段になると、こんどは又、たちまち明治世相史の全体がこれへのしかかって来る。その細末の小さなこと、例えば、洋服のカラーは、そもそもはじめには Collar これを「コラル」と発音して、「首巻」或いは「つけえり」と訳された。こういうことも、到底軽視できなければ、その頃おい、世相あまねき欧化の一つ一つの事項のいずれも看過できないこと、申すまでもなく、福沢諭吉先生は、明治早々にしてすでに国音の「ウ」へいきなり濁点を打って、「ヴ」とよませる、文字通り弘法大師以来の新字をこしらえて、外音の「V」を写すことに成功した。等々。
一々こういうことがすべて「響き」を持つこととなる。
ハイカラ風俗のそこから下って来た山の高嶺――欧化の絶頂――が「鹿鳴館」にあることは衆知のところだが、そこに有名な仮装舞踏会のあったのが明治二十年四月で、それから二年経つと、明治二十二年二月十一日を期して憲法が発布された。
その朝のことだった。雪が降っていたが――この雪はやがて晴れて、道は冷たく、数万の人出に、往来は夜になると至るところコチコチに踏みかためられたという――文部大臣の森有礼がまだ降りやまない雪の中を、参賀に出ようとすると、あっ[#「あっ」に傍点]という間に刺客の手にかかって、やられてしまった。
森は欧化論の急進であったが、かねがねそれから来る言動が刺客を招くことになったので、とうに明治八年の古きに、斬新無類の結婚式をやってのけて、世人の意表に出ている人。それは結婚式と云おうより結婚宣誓式ともいうべきもので、「紀元二千五百三十五年二月六日、即今東京府知事職ニ在ル大久保一翁ノ面前ニ於テ」という誓文の書出しで、別に「証人」として福沢諭吉を立て、当日は自宅の門前に「俗ニ西洋飾リノ門松ト詠フル如ク緑葉ヲ以テ柱ヲ飾リ」、つまりアーチをこしらえて、国旗を立て、提灯を列ね、「……今晩ノいるみねえしよんノ支度ト見エタリ」
ここに引用している「」の中の文章は、明治八年二月七日の日日新聞の記事であるが、明治八年にして新聞紙上にイルミネーションと綴らせたのも桁外れならば、いわんやそれを「自宅」に点じたに至って、――ハイカラの張本人ここにありと云わなければならない。
面白いのはこの日の「月下氷人」格の府知事大久保一翁で、この人はかねて大の刀剣通の、その蒐集する刀の蔵い場に頭を悩めたあげく、束にして四斗樽に刀身を何本も差して、そのぎっしり日本刀のささった樽が、又、橡の下に家中一杯だったという人である。「ハイカラ」とは一応対蹠的な、江戸藩の名士である。――その古武士然たる人が、スコッチの猟銃服いかめしく身をかためて、森の結婚宣誓式へ乗り込み、中央に座を構えた。
その時の模様を新聞は云う、「……此ノ盛式ハ東京知事ノ面前ニテ行フト有ル故ニ、大久保公ハ何処ニ御座ルカト見レドモ我輩ハ其顔ヲ知ラネバ何分ニモ見当ラズ、唯怪シムベキハ此正座ニ髭ガ生エタ猟師ヲ見タルノミ。」いずれも礼服揃いの満座の中にこの髭翁だけが「短カキ胴〆ノ附タル服ヲ着シ」とあって「早ク申サバ日本の股引半天ノ拵ヘユヱ、連座ノ西洋人ハ勿論、日本人モ扨々失礼ヲ知ラヌぢぢい哉ト横目ニテじろりと睨メタリ。」ところがそれが知事様だと隣席のものに教えられて「我輩ガ考ヘニハ此失敬老人ガヨモヤ大久保公デハ有ルマイ。」公はやはり今席にはいないのであろう。もし万一にもこの猟服の髭翁が公なりとすれば、公は公儀お目附大目附の役も勤めた人であるから、これには余程の深い所存あっての服装だろう、――と大いにヒヤかしてある。
思うに一翁は「洋服」ならば洋風儀式には何でもよかろうというわけで、半ズボンか何かで乗り込んだものだったろうが、一方、この翁・刀剣翁をして、出鱈目であろうと何であろうとも「洋装」させたものが、また時勢[#「時勢」に傍点]であったろう。
さきに誌したように、横浜から「洋物」は来るとは云っても、いずれもデキの、向うの品ものがそのままこっちへ渡るというだけの、帽子、服の類のことであるから、少し手が短かいとか、足が長いとかいう位の寸法違いは、洋服を着ようともある新人にとって当時あたり前の、辛抱しなければならないことで、渋沢さんは或る時、或る外国使臣の宴会へ行ったそうだが、他のものはそれぞれ招じられて席へつくのに、いつまで経っても自分を案内してくれないという。その時渋沢さんの一着していた洋服が、急いで買いこしらえた、コックや給仕の着る服装だったということである。
はるばるこの辺の「欧化」からたどりついた明治三十年―四十年の間の、「ハイカラ」モード風俗は、今から見れば相当おかしな「好男子ぶり」とは云っても、兎に角よくもそこまで短期間に進歩したものではあった。[#地付き]〔昭和二十三年〕
底本:「日本の名随筆 別巻95 明治」作品社
1999(平成11)年1月25日第1刷発行
底本の親本:「木村荘八全集 第五巻」講談社
1982(昭和57)年9月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2008年12月12日作成
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