が付き添うて、馬上の陛下に紺蛇の目に銀の蒔絵をしたお傘をさしかけたということである。
今から九十年前に陛下が江戸――この東京へ先ずおいでになった時には、そういう「お国振り」とも云おうか、われわれ、今にして思えば、千年も前のようなお姿で、東下りなさったのであったが、明治四年になると散髪令一下されて、参議連の木戸、大隈、伊藤等の頭上から一瞬にしてちょん髷がなくなり、つづいて日本中で切り下されたちょん髷の数々は、日に日に無数だったことだろう。横浜ではその頃から、「仏蘭西五十三番」にヂバンという商人があって、洋服、靴、帽子、手袋等、アチラの装身具一切をあきなったという。
時は少し下るが、数奇者の――そしてモードに対して常にカンの鋭かった――音羽屋五代目菊五郎は、好んで横浜(ハマ)まで洋品の買いあさりに出かけ、或る時は長靴を求めて、意気揚々とそれを履いて「小屋」入りしたことがあったという。
二十一歳におなりになると、それからは明治天皇は、公式服装の場合は一切、出るにも入るにも洋装となさった。千年の緋袴白袍は深々と蔵に埋められて、歴史の彼方に去ったのだ。
ハイカラという言葉は、英語の h
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