告文字の出る時分から、と云ってよいと思われる。
「広告文」には、余り一般にわからない字や言葉は使わないものである。――昭和二年に、大槻如電編輯の『新撰洋学年表』の改版広告が新聞へ出た時、割註を入れて、「御存知の方は御存知なるべし」とあったことがある。そういうことはあるにしても――現在で云って例えば、ロード・ショウ、アベック、ニュウ・ルック等の言葉(及びその世相)は、これぞ又「御存じの方は御存じ」で、前々から云われはした言葉ながら、新聞広告の一般にこれを発見するようになったのは、遠くないことである。この節では一行広告に「アベック旅館云々」は珍らしからず、「靴のニュウ・ルック」とあって、その絵入りの広告なども見かけることがある。これらの言葉や世相もまた、かくて日本化[#「日本化」に傍点]するものと見てよい。
『滑稽なる日本』という本の明治三十四年に新聞へ出た広告文字の中には、「高襟者流」という字、これをハイカラーとよむよみかた[#「よみかた」に傍点]と、やがてそれが「ハイカラ」につまろうとする暗示と、この新語に対する二通りのよみ[#「よみ」に傍点]がそのまま生《なま》で誌されているのは、当時まだ high collar が充分日本式にこなれた「ハイカラ」でもなければ、と云って西洋譲りの「ハイ・カラー」ばかりでもない、この間の過渡を示すもので、巧まずしてよく時代[#「時代」に傍点]を語っている。――広告文の現役性がなす面白さがここに見られる。
翻ってこの言葉がそもそも使われ始めたのは[#「始めたのは」に傍点]いつ頃からだったろうというに、それについては、石井研堂氏の明瞭な考証が『明治事物起原』の人事のくだりに出ているのである。
「ハイカラの始」と題して、「明治三十一、二年の比、毎日新聞の記者石川半山、ハイカラーといふ語を紙上に掲げ、金子堅太郎のごとき、洋行帰りの人々を冷評すること度々なりし。泰西流行の襟の特に高きを用ゐて済まし顔なる様、何となく新帰朝をほのめかすに似て、気障の限りなりければなり。――然るに三十三年八月、築地のメトロポールホテルに於て、竹越与三郎の洋行の送別会を開きたる時、来客代る/\起ちて演説を試みたりしが、其の際に、小松緑起ちて、ハイカラーといふに就て一場の演説を試み、世間多くは、ハイカラーを嘲笑の意味に用ゆれども、決して左には非ず。ハイカラーは文明的
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