て――言葉としてとうに「死語」の一つである。(その実体も死滅したこと、勿論。)今日ではハイ・ネック high neck というより[#「より」に傍点]伊達な、そして洋語そのものとしても意味の幅の広い通語は、人が(主として若い女性)使っても、ハイカラ、或いはハイ・カラーは、もはや云わない。ただわれわれ年輩の旧人が、シックなハイ・ネックをも「ハイカラ」と呼んで、笑われることがあるだけである。
われわれ年輩の旧人は、少年の頃に、
[#ここから2字下げ]
※[#歌記号、1−3−28]いやだいやだよ、
ハイカラさんはいやだ、
頭の真中にさざえの壺焼
なんてマがいんでしょ
[#ここで字下げ終わり]
という歌を、好んでうたった。
「ハイカラ」は欧化風俗のことであるから、この「欧化」という筋骨を度外視しては考えられず、欧化そのものについて考える段になると、こんどは又、たちまち明治世相史の全体がこれへのしかかって来る。その細末の小さなこと、例えば、洋服のカラーは、そもそもはじめには Collar これを「コラル」と発音して、「首巻」或いは「つけえり」と訳された。こういうことも、到底軽視できなければ、その頃おい、世相あまねき欧化の一つ一つの事項のいずれも看過できないこと、申すまでもなく、福沢諭吉先生は、明治早々にしてすでに国音の「ウ」へいきなり濁点を打って、「ヴ」とよませる、文字通り弘法大師以来の新字をこしらえて、外音の「V」を写すことに成功した。等々。
一々こういうことがすべて「響き」を持つこととなる。
ハイカラ風俗のそこから下って来た山の高嶺――欧化の絶頂――が「鹿鳴館」にあることは衆知のところだが、そこに有名な仮装舞踏会のあったのが明治二十年四月で、それから二年経つと、明治二十二年二月十一日を期して憲法が発布された。
その朝のことだった。雪が降っていたが――この雪はやがて晴れて、道は冷たく、数万の人出に、往来は夜になると至るところコチコチに踏みかためられたという――文部大臣の森有礼がまだ降りやまない雪の中を、参賀に出ようとすると、あっ[#「あっ」に傍点]という間に刺客の手にかかって、やられてしまった。
森は欧化論の急進であったが、かねがねそれから来る言動が刺客を招くことになったので、とうに明治八年の古きに、斬新無類の結婚式をやってのけて、世人の意表に出ている人。
前へ
次へ
全9ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
木村 荘八 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング