そめ 歩いて何日ぐらい、かかりやす?
吏三 え? お前、歩いていく気でやすかい?
そめ いえ、こんな婆あでやすから、若いしのように早くはいかねえが、ボツボツ歩けば――
吏三 ちょ、ちょ、ちょっと待った! ちょっと待ってくれ! ちょ、ちょ、お前、じょだんじゃねえ! この上、シベリヤまで――ボツボツ歩かれて、たまるかえ――じょ、じょ――
助役 ハハ、ハハ。……そりゃ駄目だよ婆さま。間に海が在ってな、よしんば海は渡っても、向こうで入れてくれんだ。ハハ、そんなムチャを言うもんじゃない。
農夫 俺あ、笑えねえです助役さん!(涙を拭いて)俺あ笑えねえ! そうだらず? この年寄りがだな、とんかくだ、息子を連れに、この年寄りがシベリヤまで歩いて行く気を起しているのですぞ! 笑える奴があったら笑って見ろい! そんな奴ぁ、情無しの、我利々々野郎のオタンコナスの、だら野郎つうだ!
吏三 ダラ野郎? 助役さんに向って、お前、言う事に事を欠いてダラ野郎たあ、あんだい?
農夫 だって[#「だって」は底本では「だつて」]、そうじゃねえかい、お前さんたちは一事が万事そうた調子の、グズだ。わしん所のカリンサンにしたってだな、こんだけ俺が頼んでも――
吏三 又カリンサンだあ!
助役 まあま、小父さ、そんな泣いたりせずともだな――わしら、あんた方村民のために良かれと思って、出来るだけの事はすっから――(おそめに)だから婆さま、今日はもうお帰り。な! そうやってお前が坐りこんでいると役場のじゃまになるし、第一、内でも心配してるずら。悪い事は言わねえから内へ帰って、落ちついて待っていなせえ。
そめ はい。でも、お願えでございますから、末吉の野郎、返して下されまし。お願えで。
助役 だからさ、又こちらでも此の上にも係り係りへ早く返してくれるように頼んだり、手配はチャンとしとくからね、今日はもうお帰り。
そめ そんな事おっしゃらねえで、どうぞ、へえ。待つぶんは、いくらでも待ちやす。末吉はわしが連れて戻りやすから。
助役 まるで、へえ、息子が此処に居るようだなあ。弱ったね、こりゃ。
吏三 でしょうが? 相手になっているときりが無えんですよ、いつも。又あ言い出し、又あ言い出しして、夕方までは、どうせ帰りはしねえですから。――(おそめに)婆さま、いいからね、そっちの隅の腰かけさ、かけていなさい。
そめ はい、ありがとうござります。
農夫 そうだ、こっちに来なせよ。(助けて土間の隅の腰かけにかけさせる。鈴がコロコロ鳴る)
吏四 助役さん、農地委員の方から人が見えておりますが。
助役 おい、行くよ。(パタパタと奥へ去る)
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表の押戸がキイキイと開閉して、
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娘 あのう、戸籍トウホン、お願えしたいのですが?
吏三 トウホンかね? だら、ズーッと奥へ行って、戸籍係があるから、そう言いなさい。
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電話のベルがジリジリと鳴る。それにかぶせて大時計がユックリ十一時を打つ。それにかぶせて「はいはい、こちらは駒形村役場ですよ。……はい……はあ……はあはあ」と言う声。それらの音が次第に遠くなり、消える。
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青年 (歩きながら、ハモニカを吹いて来る。節は又古めかしい「砂漠に日が落ちて」と言うやつ)
女教師 柿沼さん、今、お帰り?
青年 ああ、村山先生、お晩でやす。
女教師 お疲れさま、近頃あなた開墾ですってね? えらいわね、大変でしょ?
青年 いえ、今日は山の畑の方です。
女教師 そう。あの今晩ね、いつか言ってた文化会の相談を光村先生のおうちでやるから、あなたも出てくれない? 女子青年会の方からも、新田《しんでん》のお藤さんや米子さんなぞも出るの。
青年 そうでやすか。出たいけんど、なんせ、晩めし食うと、くたびれてんで、じき眠くなっちゃって――
女教師 あらあ、あんたみたいな若い人が、そんな――それにね、光村先生がこないだ東京へ行って来て、農村演劇の話聞いて来たり、本も一杯買って来てござるから、面白い話が出るだろうと思うの。文化会で劇をしようと言ってた、あの話に就いて、よ。
青年 そうでやすか、そいじゃ出席します。
女教師 是非ね、じゃ、後で又。(コトコトと靴の音が去りかける。その音に鈴の音が混って来る)
青年 ああ、鷲山の婆さま、今日も行ったな。
女教師 (横道の離れた所から)え、なあに?
青年 いいえ、なんでもねえです。
女教師 そう? じゃ、バイバイ。(靴音消える)
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鈴の音と下駄の音近づく。
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青年 お晩でやす、婆さま。――(返事なし)役場の帰りだかい?(返事無し)……くたびれただなあ。もう、よしゃ、いいに。……どうしただよ、婆さま?
そめ (消え入るように弱り果てた声)お晩でやす。
青年 ……(それを見返り、見返り、歩き出し、癖になっているハモニカが口へ行って、「砂漠」のメロディ。ある所まで吹いてピタリとやめる。あとは、スタスタと地下足袋の足音だけが遠ざかる)
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コトコト、コロコロと歩いて行く下駄と鈴の音。
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男の子 (前出)やいやい、キチゲばば!
そめ ……(チョット立停るが、又、歩き出す)
男の子 とまれ! へえ、じょうぶ待っていたんだぞ、俺あ。(鈴の音がとまる)ホリョ、もどしてくれたかよ? うん?
そめ ……(やっぱり弱々しく、おびえた声)もどしてくれなんだわ。
男の子 なぜ、もどさねえだ?
そめ ズーッと、遠いんですと。
男の子 いくら遠くとも、おめえの息子ずら? そんだら、なぜもどさねえだ?
そめ あい。……
男の子 悪いぞ、そんな奴あ! へえ、俺ぁ、きかんから。
そめ ありがとうさん。……通しておくれんさいな。
男の子 これ、返さあ。
そめ なにな? ああ、昼間あげた十円だな? どうしてな? おっ母あに、しかられたかな?
男の子 しかられやせん。もう要らんけん、返さあ。
そめ ……そうかえ、そうかえ、良いお子だ。いいから、婆はいいから、明日になったら、坊やがキャラメル買うて食べなんし。(歩き出している)
男の子 要らんつうたら!
そめ ……(遠ざかりつつ)いいから、よ!
男の子 やいやい、やいやい! 息子のホリョの奴ぁ、今に帰って、来るぞう!
そめ (うれしそうに)あい。
男の子 (遠くから)バカア! キチゲばばあ!
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コロコロと行く鈴の音。
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旅の女 あの、もしもし。……ちょっと伺いますけれど。……(おそめは立停って、薄闇をすかして見ている)この辺に、何か食べるものを売ってくれる内はないでしょうか?(返事なし)……なんでもいいんですけど?
そめ ……なんな、お前さま?
旅の女 いえ、東京を立つ時にもう少し何か用意して来ればよかったけど、……夕方までには――この前、戦争中来た時には、バスが白浜まで行っていたから、その気で、夕方までには着けると思っていたら、いつの間にか、バスがほかへ廻るようになっていて……おなかが空いて、あなた、もう歩けないんですの。……白浜まで、まだ、二三里有るんでしょ?
そめ 白浜かいな? 白浜までだと、ええと、何千里つう――
旅の女 え?
そめ ううん。いや、そうさ――白浜と……
旅の女 この奥なんでしょ? 一度主人といっしょに来た事があるんですけど、よく憶えてなくて――
そめ そうさ、二千……いやいや、二里半かな。ええと……そうかや? おらあ、へえ、どうしたずらな? コーツ、と?
旅の女 どうかなさったんですか?
そめ いやいや、コーツと。……食う物だと、そいで?
旅の女 はあ、何でもいいから売ってくれる所は無いでしょうかね?
そめ さあ、この辺には、店屋なんぞ一軒もなし、……第一、もうへえ、暗くなんのに、お前さま一人で、なんでまた――?
旅の女 連れ合いの姉が、その白浜村にいるんです。いえ、先日急に病気で連れ合いが亡くなりまして……この子が有るもんですからね。
そめ (相手の背中をのぞいて)ああ、赤さんだなし。よくねぶってござら。
旅の女 連れ合いの――ナンの時も、そう言って来てもくれない姉ですから、さて行って見てもなんにもならないかも知れませんけどね……とにかく今後の身のふりかたを相談しに――ほかに身寄りもないもんですから――
そめ そりゃ、えれえことだ。そうかや。つれえこんだなし。
旅の女 いいえ、つらい事は覚悟して来たんですから、なんでもないんですの。ただ、おなかが空いて歩いて行く力がなくなっちまって――
そめ うんそうだ[#「そうだ」は底本では「そうた」]、おらに握り飯があるよ。ホイホイ。(帯のうしろにむすび附けた包をほどきながら)これ食って行きなせ、あい。
旅の女 え? まあ!、これ、いいんですか?
そめ ええとも、ええとも。竹の皮ごと持って行きなんし。
旅の女 それは、どうも。ありがとうございます。助かりました。なんでしょうか。いかほど、お金さしあげたら?
そめ なに、ぜになど要らんよ。それは、おかつがこせえてくれたおらのベントウだ。
旅の女 じゃ、お婆さんがお困りでしょ?
そめ あにさ、俺あ、へえ、食わずにすましただから。遠慮せずと、お持ちなせ、さあさ。
旅の女 そうですか。そいじゃ、どうも――おかげで、助かります。こんな所で、どこの方か知りませんけど――(涙声)忘れません。……ありがとうござ……
そめ あい、あい。(少しテレるような調子。しばらく前から、彼女の調子に、夢から醒めた人のような所が出て来ている)そんじゃま、早く行きなせ、おそくなると、へえ、物騒だ。(自分は歩き出している)
旅の女 (離れた所で)忘れませんよ、お婆さん!
そめ お前さまも、つれえ事が有っても、短気起さねえでなあ!(そしてスタスタ歩く)
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鈴の音と下駄の音。
自転車のベルの音。
[#ここで字下げ終わり]
娘 (前出)お晩でやす!
そめ お晩でやす。
娘 あら、婆さま、今帰り?(そめ返事せず。娘はベルを鳴らして追い抜いて行ってしまう)
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鈴の音と下駄の音。……それが、かなり長いこと続いて、やがてユックリとなり、フッと停る。
[#ここで字下げ終わり]
そめ (ひとりごとの様に)つれえ事が有っても、なあ……(その言葉尻が涙声になり、やがて、すすりあげて泣き出す)
馬方 (遠くからガラガラと空車の車輪の音と馬のひづめの音と共に近づく。酔っているらしく、恐ろしく間伸びのした歌)イッサイコレワノ、パラットセと。はぁああ、伊達と相馬の、境の桜、ハハコレワノサ……こらやい、早く歩べ……ハイッサイコレワノ、パラットセと。はぁああ――誰だあ?(返事なし)え、おい? あれえ、シベリヤ婆さまでねえかよ。どうしたな、こんな所に?
そめ お晩で――
馬方 又、泣いてるだな、こねえな所で――チェッ、しょうのねえ婆さまだのう――だから、朝逢った時、あんだけ俺が言ってやったじゃねえかよ。シベリヤに居る息子は、役場に連れに行ったとて、どうならず? 無駄な事ぁ、はなっから、わかってんじゃねえかよ。それをさ、目え釣り上げて役場さ行っちゃ、日が一日サンザからかわれてよ、ガッカリして戻って来て、ここの橋の所まで来ると泣いてござら。しっかりせんと、今に、お前、川ん中にでもドンブリこいたら、どうしるだあ?
そめ 俺あ、まちがって、いやした。もう、へえ、こんな事しねえから――
馬方 へへ、まあ、そいつがお前の業つうもんずら。くたびれつろ? えらかったら、俺の車さ乗って行くか? なによ、どうせ空車だあ。乗りなよ、さあ――
そめ ありがとうござりやす。
かつ (小走りに近づいて来ながら)ああい、婆さまかよう?
そめ おかつや――
馬方 ああ内の人かよ。てえげえに[#「てえげえに」は底本では「てえけえに」]するがええぞ。こんな年寄りば、一人でおっぱなしてやってよ、たった[#「たった」は底本では「たつた」]今も、此処にぶっ坐って泣い
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