彦六大いに笑ふ
三好十郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鐚《びた》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#5字下げ]まへがき[#「まへがき」は中見出し]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)チラ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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[#5字下げ]まへがき[#「まへがき」は中見出し]
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ホンの此の間まで、その一廓はチヤンと生きてゐた。
あれでも、全部では十軒位の店は在つたのであらう。ハツキリ記憶に在るだけでも、先づカバン屋、洋品店、文房具も売つている雑貨店、靴屋、昼間は薄暗い店先だが夜になると不意に「サツク及スキンいろいろ」と書いたネオンが灯る衛生器具屋、小さい炭屋、そこだけが此の一廓中で二階になつてゐる撞球場、その階下の小さい酒場が大通りの角店になつてゐる。その横に小さな煙草店、それからその又横の中華料理店、そして、煙草屋と中華料理店との間が幅三尺位の露地になつてゐて、通りすがると気取つたセロの音がするのでヒヨイと覗くと、これがまるで箱根土産の寄木細工の箱の様に薄つぺらで小さな「純喫茶」と言ふやつ。しかも名前が、たしか「ル・モンド」と書いてあつた。僕は吹き出しさうになり、しかし、又、その大袈裟な所がトタンに気に入つて、飛び込みかけてヒヨイと見ると、隅の方にトグロを巻いている男の顔がチラツと見えた。顔見知りだが名は知らない。タカリ専門の三文演芸新聞を編輯している男で、此奴が酔ふと、必ず「左翼も駄目になつたなあ君、俺が江東で金属をやつていた時分は――」と来て、それから打つちやつて置くと筋もなにも通らないオダをあげて相手を離すことでは無いのだ。しまひにベロベロになると「全世界の青年××のために乾杯しよう」と来る。ことわると「ぢや反革命だな貴様は!」と眼を三角にして詰め寄つて来るから、始末に悪い。
僕は恐れをなして、踵を返すと、どう言ふものか、いきなり中華料理店に飛び込んでしまつた。大方、あわを食つたせゐだらう。しかし、その狭苦しい不景気な中華料理店の、ドロドロに汚れた腰掛に尻をトンとおろして何と言ふ事も無く溜息をついたら、急に腹が空いたやうな心持になつたから妙だ。シユーマイを一皿注文した。そしたら今度は小便がしたくなつた。
青い仏頂面の、それでゐて無闇にブカブカ太つた女給に便所を貸してくれと言ふと、彼女はニコリともしないで「便所は内には有りません。共同のが外にありますから、あすこでして下さい。」
指す方を見ると、ノレンをくゞつた店の横、つまり露路の中のコンクリー壁の外に水道の共同栓みたいな物が立つていて、その下がヂヨウゴ形のコンクリーの叩きになつてゐて、真中に小さな穴が開けてある。囲ひの板一枚有るわけでは無い。つまり、此の町の真中に、完全な野天の共同便所が有つた訳である。しかたが無いから、ヂヤーヂヤーやつてゐたら、薄暗い露路の奥からスタスタ出て来た男が、人の足元を見てから膝から腰、腹から顔と言つた順序で、つまり人の身体を逆さまに舐め上げる式の視線の使ひ方、つまりあれで以て僕を見ながら近づいて来て、
「いよう!」と言つてニヤリと笑つたには弱かつた。
先方では知らないだらうが、僕は知つてゐる。これはぎう[#「ぎう」に傍点]太郎だ。金貸もやつてゐる。その時も金貸の方の用の帰りでもあるだらう。小さい黒カバンをわきにはさんで、立停りもしないで露路を出て行つてしまつた。
眼のやり場に困つて、前のコンクリーの壁を見ると、これは又何と言ふ丹念さで描き上げたものか、つまり大概の共同便所の壁に描いてある例の絵が、深刻な出来栄へである。絵の直ぐ上、つまり僕の鼻の先は中華料理店のコツク場の窓になつてゐて、そこでコツクがシユウマイをまるめてゐる。鼻声で流行歌を唄つてゐるが、なんとも汚ならしい垢だらけの青年だ。僕の鼻にはシユーマイの匂ひがして来る。勿論足の下の共同便所からは小便の匂ひも立ち昇つて来る。ヘドが出さうになつて来た。
小便は終つたけれども、どうにも店に戻る気にはなれない。注文しつぱなしで、金も払はないで行つてしまふのは、青んぶくれの女給に気の毒だし、それに下手をしてふんづかまりでもしたら叩きのめされるかもわからないとは思つたが、だからと言つてあのシユーマイを食つたら俺は死ぬかも知れないぞと、臆病者にありがちの大袈裟な恐怖にとらへられてしまへば、もう絶体絶命である。まゝよ、女給さんには、又今度あやまらうと覚悟をきめるや、殆んど一目散に露路を走り出して逃げ出したが、暫く行つてチラツと振返つたら、誰も追ひかけて来る気配も無いのは、笑止であつた。
その後もあの近くを通る毎に、あの女給に十銭銀貨を渡しに寄らうと思はぬ時は無かつたのである。どうもバツが悪くて、それを果さないで居る間に、もう渡さうにも渡すすべが無くなつてしまつた。その店や、ル・モンドだけに限らない、その一廓にかたまつて営業してゐた商店の殆んど全部が急に店を畳んで立退いてしまつた。
記憶は、まだ、いくらでも有る。
たとへば、あの小さな煙草店にいつも坐つていた少女の顔に在つた、おびただしいソバカス。靴屋には十二三の小僧がゐてこれが始終水ばなを垂らしている。両手の指は霜焼けでふくれ上り、それを靴の修繕をする際に金槌で以つて時々あやまつて叩きつぶすのではあるまいか。血がにじんで、くづれてゐるのである。又極く最近、洋品屋にカラー・ボタンを買ひに入つた事がある。するとふだんは如何にも気の好ささうに店先の二畳ばかりの畳敷に背をまるめて坐つて、薄眼を開いた眼で往来の陽差しをウツラウツラと見ながら店番をしてゐた四十恰好のおかみさんが、その日はどんな加減からかひどくプリプリしてゐて、一言の愛想も無く僕の出した代金を引つたくる様にして受取りながら、奥の間にシヨンボリ坐つている亭主――僕も見知つてゐる――の背中に向つて、噛み付くやうな句調で言ふのである。
「だつて、あんた、さうぢやありませんか! こいだけの店を張つてさ、そいで、やつとおとくいさんも出来たと言ふのは、なかなかの苦労ぢや無かつたんですよ! 食ふや食はずで、こうして四年近くと言ふもの、なんの為めに働いて来たんですよ! それを、三百や四百の権利金でもつて、たつた今立退いて呉れだなんて! 立退料ともで、たかだか五百円ですつて? へん! いくら先方は金が有つて、食堂だかデパートだか、なんだか知らないけれどもさ、そんな、そんな乱暴な話つて有るもんか! 此処を立退いたら私達親子六人、なんで食べて行くんです! 四百や五百、アツと言ふ間になくなりますよ、ほんとに! 先方は金持だかなんだか知らないけど、そんな話あ、極道だよ! 極道が此の世で通ると思つて居るのか! ほんとに、馬鹿にしやがつて!」
唯ならぬおかみさんの見幕に驚いて僕は直ぐに店を出たから、なんの事やらそれ以上わかりやうはなかつたが、すると此の辺を誰かが買収にでもかかつているのかと思つたものだが、あれから十日と経たないのに、現に此の洋品屋もなくなつてしまつて、跡は戸をおろして釘附けにでもすることか、殆んど開けつぱなしのまま、人気が無くなつている。思ふにお神さんのいはゆる「極道」が通つてしまつたのであらう。
十軒ばかりの店がスツカリ空家になつてしまつている。営業をしているのかどうかは知れないが、とにかく元のままで店を開けているのは、角の酒場と、その二階の旭亭撞球場の二軒だけだ。
あつけに取られると言ふのは此の事だ。盛り場の裏通りの、木造建の此の一廓が、急にヒツソリとしてしまつたのは、寂しいと言ふよりも、いつそ異様な位に感じられる。
それも昼の間や宵の口は、附近が人々や騒音でゴツタ返しているから、まだよいが、夜更けになると、シンとするし、まるで廃墟のやうに、やりきれない光景になつてしまふ。
ところが今夜は、その二階の旭亭がひどく賑やかだ。
[#ここで字下げ終わり]
[#3字下げ]第一幕 ビリヤード旭亭内[#「第一幕 ビリヤード旭亭内」は中見出し]
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場内一杯に音楽、――アコーデオンに依る急テンポのダンス曲。それに拍子を合せてタタ、タタツ、タツと床を叩くタツプの響。やがて男声テノールの唄。
開幕。
ガランとさびれ果てたビリヤード室。周囲には汚れた椅子、長椅子、ゲーム台、キユー台等。正面奥に三つの窓、既にカーテンもさがつて居ないので、そこからは深夜の盛り場のネオンが低く覗いてゐる。下手横に階下へのドア。室内上手の部分は一段高くなつて畳敷になり、その奥はカーテンで仕切られて見えず、右の隅は押入れ、カーテンと押入れの間は狭い通路(裏梯子へ)、二台の球台中一台だけが正常な位置(下手寄り)に据ゑてあり、他の一台は壊れて使へないか奥上手に片寄せられてゐる。その跡の広い場所で、いづれも水着一枚きりの裸体を汗みどろにして三人の若いダンサーが、タツプダンスを踊り抜いてゐる。中の一人、時々ハイツ、ハイツと掛声を掛けてゐるのは、此の旭亭の娘(千代――通称ミル)。若い洋服の男(田所修)が奥の球台に腰をかけ、窓の外(舞台奥)をチラ/\見下ろしながらアコーデオンを弾き唄つてゐる。三人のダンサーと同じ劇団のテノール歌手である。畳敷の所に横坐りに坐つて、酒のコツプを時々口へ持つて行きながら、右の四人をニヤ/\しながら見やつてゐる三十四五の小麦色の肌をした女は、此処の主人の妾(お辻)。――タツプダンスと音楽は続く。
アコーデオンとダンスの拍子がヒヨイと狂う。
[#ここで字下げ終わり]
ミル 駄目! そこん所、もう一度!
修 失敬、四小節戻るぜ。(弾き直しながら唄ふ)
ミル (踊る)さう! キツクをもつと強くよ! ハイツ! (三人そろつて踊る)もつと、テンポをあげて!
修 うん……(又、まちがへる)
ミル なにをぼんやりしてんのよ! あんた、今夜どうかしてるのね、修さん!
修 失敬々々! もう間違へないよ。あのう……
ミル 間抜けつ!
お辻 お稽古となると、まるで気違ひだねえ。ハハ……
ダンサー一 ミルさんは小屋でだつて、さうよ。
ダンサー二 振付けの先生の手に噛み付いた事あつてよ。
ダンサー一 先生さう言つてた。正宗は怖い、まるで人が変つてしまうつて。
お辻 なに、親ゆづりだ。お父つあんにそつくりなんですよ。
ミル よけいな事言はなくていい。(修に)どうしたのさ、え、あんた?(詰め寄る)あたし達を、おちやらかす積りなの?
修 ち、違う! そんな、君――
ミル あんたも商売人ぢやないの? 商売をしてんだろ? 遊び事をしてるんぢやないわね? 芸人なら芸の事になりや、シラ真剣の筈だ。
お辻 修さん、どうか腹を立てないでね。(ミルの方へ)ミルさん、いくら仲がいいたつて、少しは言葉を慎しむものよ。大体お前さん達が頼んで来て貰つてるんじやないか。それに、修さんだつて、小屋がハネてから来てるんだから、くたびれてんだよ、もう何時だと思つてゐるの?
ミル 口出しをしないでゐて頂戴、お辻さん、あんたにや、わからん。
お辻 さうかねえ、ふん、さうでせうよ、どうせ私あ、ゲーム取りあがりの、なんにも解らない女さ、さうさ、お妾ですよ。
ミル それがどうしたの?
お辻 お妾だからお妾だと言つてるんですよ、でもこうして鐚《びた》一文貰へないお妾さんも、まあ珍しいだらうね。大体私が好きこのんでこんな風になつたと思つているの? へん三多摩自由党の生残りだか何だか知らないが、ミルさん、あんたのお父さんなんて言ふ人はね――
ダンサー一 今夜はもう、これ位で止さう。
ダンサー二 疲れちやつた。
ミル さう? 帰りたきや帰つたらいい。私は、稽古がスツカリ済む迄は、どんな事があつても止さないよ。
修 俺が悪かつた。ぢや、今んとこ始めつから行くよ。(弾き出す)
ミル よし、ワン・ツー・スリー!
[#ここから2字下げ]
三人再び踊りはじめるが、又忽ち修が手を間違へ、ハツとして球台を降りて
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