うと思はぬ時は無かつたのである。どうもバツが悪くて、それを果さないで居る間に、もう渡さうにも渡すすべが無くなつてしまつた。その店や、ル・モンドだけに限らない、その一廓にかたまつて営業してゐた商店の殆んど全部が急に店を畳んで立退いてしまつた。
記憶は、まだ、いくらでも有る。
たとへば、あの小さな煙草店にいつも坐つていた少女の顔に在つた、おびただしいソバカス。靴屋には十二三の小僧がゐてこれが始終水ばなを垂らしている。両手の指は霜焼けでふくれ上り、それを靴の修繕をする際に金槌で以つて時々あやまつて叩きつぶすのではあるまいか。血がにじんで、くづれてゐるのである。又極く最近、洋品屋にカラー・ボタンを買ひに入つた事がある。するとふだんは如何にも気の好ささうに店先の二畳ばかりの畳敷に背をまるめて坐つて、薄眼を開いた眼で往来の陽差しをウツラウツラと見ながら店番をしてゐた四十恰好のおかみさんが、その日はどんな加減からかひどくプリプリしてゐて、一言の愛想も無く僕の出した代金を引つたくる様にして受取りながら、奥の間にシヨンボリ坐つている亭主――僕も見知つてゐる――の背中に向つて、噛み付くやうな句調で言ふ
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