びっくりしたくらいに出しぬけに、そして、はげしい一種の気持が突きあげてきました。それは観念ではないから、言葉にして説明はできません。感動とか啓示とかいうものかもしれません。それは、ひじょうに深く、澄みとおって、鳴りひゞくような調子を持ちながら静かな静かな音楽のようなものでした。私はほとんど呆然として、しばらく何も考えず、われを忘れていました。「ああ、日本はここにあった。日本はいぜんとしてここにいる。自分がこれがこんなに好きなのだ。これさえあれば自分はなんとかやっていける。」といったようなことを思ったのは、しばらくたって我れにかえってからでした。そして、それをキッカケにして、私の中の混乱が整理されはじめました。
 これはホンの一例です。もし私という人間の中に、少しでもすぐれたものがあるとしたら、また、もし私という作家の仕事の中に少しでもよいものがあるとしたら、それらが皆、歩くことや旅することと無関係に生れたりできたりしたものは一つもないような気がします。
 他の人びとはどうでしょうか? 君はどうですか?
 歴史をふりかえってみても、西洋でも日本でも、えらい思想家や宗教家や芸術家や政治家や科学者などは、たいがい他の人たちよりも、ひじょうによく歩いている。あちこちと旅行しています。ことに、思想や宗教や芸術や政治や科学が勃興する直前のときと、また、それらがおとろえきったすえに復興される直前のときに、それらの担当者である人たちはセッセと歩いているのです。
 国のはじまりや文化や宗教のはじまりのころを思いえがいてみましょう。それらが衰えきって、こんどまた復興したときの、それらの復興者たちの姿を思いだしてみましょう。それは歩いている姿です。あちらへ行き、こちらへ行きしている姿です。キリストもシャカも老子《ろうし》も孔子《こうし》も空海《くうかい》も日蓮《にちれん》も道元《どうげん》も親鸞《しんらん》もガンジイも歩いた。ダヴィンチも杜甫《とほ》も芭蕉《ばしょう》も歩いた。科学者たちや医者たちも皆よく歩いています。えらい創始者や復興者たちを一人ひとり思い出してください。ほとんど全部がふつうの人よりよく歩いています。現代でもそうです。その国やその地方やその事業やその仕事を、さかえさせたり、統一したり、強めたり、育てたり、創りだしたり、生きかえらせたりすることにあずかって力のある人は、み
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