想的なことでわからないことにぶちあたって、いくら研究したり思索したりしても混乱して、結論が見いだせない。または、生きていくうえでの難問題に出あって、迷いに迷い、気がよわまってどうにも処置がつかぬ。そういうときに、旅行に出て、あちこち歩き、電車に乗りバスに乗り汽車に乗ったりして、みじかくて三四時間、ながくて三四日すると、そういう迷いや混乱や衰弱が、全部とはいえなくとも、その大半がひとりでに自分から剥《は》げおちているのです。
それは、そのあいだに、それらの問題についてセッセと考えつめたからではない。ほとんど考えはしないのです。ただそれらの問題を自分のうちにたたえ持っているだけなのです。ただなんとなく、たたえ持ちながら、自然を見たり人びとを見たり、自然の中へふみこんだり、人びとと話しあったりしているあいだに、私自身にもよくわからない微妙な作用が起きていて、自分のたたえ持っている問題の中心のようなもの、本質のようなものが、ハッキリした形になって、自分の手のひらの上にのっているのです。
私は、敗戦後はじめて旅行したときのことを思いだします。旅行といってもホンの小旅行で、中央線の列車に半日乗っている程度のものです。じつは私は敗戦と同時に、何をどう考え、何をどうしたらよいか、まるでわからなくなってしまって、ウツウツとしてその夏から秋をすごしたのですが、思い疲れたすえにヒョイとどこかへ行ってみる気になったのでした[#「なったのでした」は底本では「なったのでた」]。
そのころの例にもれず、列車はおそろしく混んでいて、もちろんすわれはせず、窓のそばに押しつけられて身動きもできないので、息ぐるしく不快でした。しかし発車して一時間もすると、それはそれなりに、身辺が落ちつきなごんできて、小仏《こぼとけ》のトンネルを越えたころからは窓の外を眺め入る余裕もできてきました。二時間ばかりたち、勝沼《かつぬま》から塩山《えんざん》あたりの山村が窓の外をユックリと走りすぎていきます。それまでに幾度も見てすぎたり、ところどころには列車をおりて滞在したところもあるし、別に目新しい景色でもありません。だのに私の目は、山や川や、ボツボツと光っている農家の白壁や、ことにそれらのあいだに、歩いたり働いたりしてユックリと動いている小さい人間の姿を、食いいるように見ていました。
そのうちに、私のうちに自分でも
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