ろいろのものの匂い……そのころには私はまったく自由で孤独な人間になって歩いているのです。
私の感覚は外気と運動のために鋭敏になっていて自分が見たり聞いたり、ふれるものの色や匂いや触感を、ひじょうにゆたかに受け入れ、味わっています。同時に、同じ理由のために、私の感受性は、私が家にすわっていたときのような神経質的な過敏さや不均衡を払いおとしていて、ずっと落ちついた健全なものになっているのです。
私は歩きながら、自分が今している仕事のことや思想のことや生活上のいろんなことを、論理のじゅんを追って考えたりは、ほとんどしません。歩きながらの見聞やそれの引きおこす感覚を味わうのにいっぱいで、チャンとしたものを考えることは私に不可能なのです。まず、犬が歩いている状態に似ているのではないかと思う。ただ仕事や思想や生活のことが、ときどきチラリチラリと頭にきます。その断片や、またはその基調になっている色あいや調子のようなものが、フッと頭にきては、しばらくとどまっている。そのうちに、目が美しい木のシルエットをとらえたり、耳が思いがけない響きをとらえたりすると、その瞬間に、さきほどの思いは完全にどこかへ飛びさっています。
そのようなことをつづけながら、私は二時間三時間と歩きます。つづけて歩くと疲れすぎるので、そのあいだ、一度か二度は乗りものに乗ります。歩くよりも乗りものに乗っている時間の方が多いかもしれません。それでよいのです。乗りものに乗っているときも、私にとっては、じつは歩いているのと同じことが起きているのです。自然と人びとの中に立ちどまり、そしてそのあいだを通りすぎていくということです。
そのようにして二三時間をすごしたあとで、ヒョイと気がつくことは、自分のうちのそれまでの混乱がしずまったり、心の疲れが癒《いや》されたりしているということです。何かが整理され、何かが立ちなおっている。もちろん、あまりたくさん歩いて疲れすぎると、かえっていけないばあいもあるが、しかしそのばあいも、その疲れがいったんおさまれば、同じことが自分のうちに起きたことに気づく。
こんなことは私だけなのでしょうか? 君にはそういうことはありませんか?
私にとっては、旅行というものも、同様な意味があります。自分がいま作品を書こうとしている。何をどんなふうに書いてよいか、いろいろに考えまよっている。または思
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