歩くこと
三好十郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)癒《いや》され

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)混乱したり[#「混乱したり」は底本では「混乱たしり」]
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 自分の頭が混乱したり[#「混乱したり」は底本では「混乱たしり」]、気持がよわくなったり、心が疲れたりしたときには、私はよく歩きに出かけます。
 それはたいがいのばあい、そういう自分の状態をなおそうとハッキリ思ってすることではなく、本能的にすることです。ほとんど無意識のうちに私は立ちあがり、かんたんな身支度をして家を出て、外を歩いています。それはまず、私が外気の中にいることが好きなこと、風景を見ることが好きなこと、知らない人びとの姿や顔を眺めることが好きなことなどのせいもあるらしいが、それだけではないようです。また、ふつうの言う意味の散歩ともすこしちがいます。
 まず、いちばん最初にくるのは、それまで自分をしばっていたいろいろのキズナからときはなれた感じです。かならずしも家または家族とのキズナだけでなく、自分の仕事や、その仕事の継続、私的なまた公的な人間関係、それからいっさいの社会的な関係のキズナからときはなれた感じ。それが切れてしまったとは思えないが、すっと長く伸ばされ、やわらかい、自由なものになったような気がするのです。そして、そのようなキズナにつきまとっている重量感が消えて、いっとき気楽になったような気がする。自分が自分からぬけだしてきた感じとでもいうか。つまり自分がそれまでにしてきた、そして現に持っている気苦労だとか、努力だとか、思索だとか、論理的な追求だとかを、自分の机の上などに置きざりにしてぬけだしてきたといったような実感です。
 そして私の目は、空を見たり地面を見たり樹木を見たり、花が咲いていれば、「ああ、そうだっけ、その季節だったな。去年もこうだったかな? きれいだな。」とシミジミと思いながら見てすぎていきます。むこうから人がくる。近所の人だと挨拶をする。見知った子どもがいると、「元気そうだ。急にまた大きくなった。」と思ったり。だんだん家を遠ざかるにしたがって、行きあう人は見知らぬ人が多くなり、二十分も歩くと私は挨拶をする必要がなくなる。車がとおる。犬が走る。電車・家々・店屋・人びとのいろいろの姿と声ごえ・空地・草・川・それにい
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