(五郎の眼に射すくめられて)……言ひはしませんよ。
五郎 さう。……(急に、小母さんと一緒に脱兎の様な早さで家の方向へ走り去つて行く)
母親 ……(さすがに実の母親で、思はずその後を追つて小走りに行きかけ)どうしたんだらうね? え、恵子? 美緒に何か――?
恵子 行かない方がいゝわよ、母さん。母さんが行つたつて、又病人が気を立てるばかりで、邪魔になるばかりよ。大丈夫よ。(肉身の姉に対する心配を感ずれば感ずるほど、美緒の病気に対する嫌悪の情も強くなる。その自分の矛盾を、母親を殆んど乱暴と言つていゝ程の動作で押しとゞめる事に依つて打切りながら)ソツとしといて、鎮まつてから行つてあげる方がいゝと言つたら!
母親 さうかねえ……。(やつぱり怖くて行きたくは無い。しかし心配で心配でたまらず、その辺をウロウロしたり、流れつぱなしになつてゐた涙を拭いたり、ウロウロした末にスケツチ板のカケラを無意識に拾ひ上げて、それを見たり、家の方向を見やつたりしてゐる)
恵子 きたないわよ、母さん! (これは割に落着いてゐるが、何と思つたか、不意に帯の間からコンパクトを出して、鏡で顔を覗いて白粉をはたきはじめる)……。
尾崎 (砂丘の横から出て来て、ニヤニヤと恵子の傍へ寄つて行きながら)やあ、御心配ですねえ。どうなすつたんですかねえ? どうも……。
3 家で
[#ここから2字下げ]
数日後の日曜日の正午過ぎ。
ドンヨリと曇つて蒸し暑く風の無い天気である。
美緒が病室の寝台の上に仰臥し、静かな眼で庭の方を見てゐる。寝台の頭の寄つかゝりの上に酸素吸入の器具が取りつけられてゐて、そのガラスの口が彼女の顔の上に開いてゐる。低くシユーシユーと酸素の出る音。大きな発作から数日を経て一応小康を得たと言つた感じで、あたりの道具の配置その他、この前とはなんとなく違つてゐる。
たつた今、医者が戻つて行つたばかりらしく、病室に椅子が一つ出しつぱなしになつて居り、小母さんが、医者が手を洗つた洗面器とシヤボンと手拭の後始末をしてゐる。数日間の心配と睡眠不足のために小母さんも疲れてゐる。珍らしくきまじめな顔をして、話す声も努めて低い。
[#ここで字下げ終わり]
小母 (洗面器をかゝへて立上り)……奥さん、どうどす? 障子締めまつか?
美緒 ……(静かにかぶりを振る)
小母 相変らず黙あつたお医者さまどすえなあ。
美緒 ……(ニツコリして手真似で、横になつて眠つて頂戴と言ふ)
小母 へい、へい。奥さんが良うなつて呉れはつたで、今頃になつて睡気が出て来ました。でも、五郎はんに較べたら、あてなどが睡いなど言ふたら罰が当りま。……でも、なんどすな、いゝ具合に比企先生が東京からお見えになつてゐやして、ホンマにようおしたなあ。これと言ふのも奥さんの運気が強い証拠どすえ。
美緒 ……(何度もコツクリをして見せる)
小母 此処のお医者さまだけでは心細うてなあ。あの方はホンマに黙あつてばかり居やはつて、たより無うて。……さあさ、少しお休みやす。
美緒 (ニコニコ笑つてゐる)
[#ここから2字下げ]
小母さんは洗面器を持つて庭に降り、樹の下に水を撒く。……間。
そこへ医者を送り出して外へ行つてゐた五郎が玄関から黙つてあがつて来る。注射液のアンプルを一本手に持つてゐる。唯さへ憔悴した顔付きが、この数日間の不眠不休の看護のため怖い位にゲツソリと青ざめてゐる。美緒よりも顔色が悪いのである。しかしこんな事には馴れてゐるのと、気が張つてゐるので、前場の浜に於ける彼よりも自分で自分を支配してゐる平静さを保つてゐる。……スタスタと居間の方へ行き棚の上から注射器を取つて、明るい縁側に来てアルコールで消毒しはじめる。
[#ここで字下げ終わり]
小母 五郎はん……お疲れどすやろ?
五郎 小母さんこそ疲れたでせう。少し昼寝をして下さい。
小母 そいで……どんな風?……(眼に物を言はせて、手真似で立去つた医者の事を示す)
五郎 ……(病室の方をチヨツト振返つて)なに、これをやつといてくれ、もう大した事は無いと言つてました。……
小母 ……(手真似と眼顔で色々と訊く。それに五郎も答へる。話の内容を病人の耳に入れたくないのである。会話の細かい事はハツキリわからないが、とにかく、既に差し当りの危険は通り過ぎたと五郎が言つてゐるらしい事が、小母さんのホツとした様子から察しられる)……。
美緒 ……(低い低い静かな声で)あなた……。
五郎 ……おい。(唖問答をやめて、病室を見る。小母さんはそれに気付いて、ソソクサと洗面器を持つて庭を廻つて台所の方へ去る)どうした?……今注射器の支度だ。……この患者の注射にかけてはあなたの方が私よりうまいらしいから、あなたに委せます。先生さう言ふんだよ。笑はしやがらあ。……さ、
前へ
次へ
全49ページ中19ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング