かげんにしたらいいと思う。学問の事など私にはわからんが、兄さんみたいな良心的な歴史学者なんて、これからの日本に存在し得るわけがない。存在する必要もない。又そうなった方が、日本の幸福かもしれんのだからねえ。そもそも、学校なんて一面から見れば要するに生活の資金を稼ぐ所なんだから、そんな所としてハッキリ認めた上でだな、先方で戻って来てくれと言ってるんだから、サッサと戻って行って、元気よくやったらどうです。
柴田 (苦笑)……やあ、私はただの歴史の学究……老書生に過ぎん。私など、実はこれから、もう一度、日本の歴史の勉強をやり直そうと思っているよ。
三平 へえ、まだこりませんかねえ?
柴田 こりる? こりるとは?
三平 だいたい、歴史を見るのに、そんな、いろんな見方が有るんですかねえ? 事実を事実として眺めれば、誰が見ても違いはしまいと思うが――?
柴田 その、しかし、事実を事実として眺めるのにも、眺める人の態度や立場が有る。第一、今迄、事実を事実として眺めるにも、それを邪魔したり圧迫したりする力が多過ぎた。そのために歴史そのものも色々と歪んで来ているわけだ。それが、これからは、まあ、そのような外部からの力が比較的無くなった。正しい公平な日本の歴史が出来あがるのはこれからだろうと思われる。私など、これからこそ、古事記や記紀の類や万葉その他の古典が国民全般に研究される必要が有ると思っている。古い時代に限らない、徳川以後、明治維新以後の近世の事にしたって、ホントに学問的に検討されるのはこれからだね。少くとも検討され得るのはこれからだ。私らはそれをやらなくてはならん。いや、私などに何程の事もやれんかも知れんが、それはまあ、私ら自身は捨石になってもよいからとにかく、これから、やらなくちゃならん。こうしてまあ、さんざんのありさまだが、此の国の将来の事を思うと、参ってばかりも居れない。むしろ、この国が生きるも亡びるのも、これからの事だと言う気がする。そう思うと、私など丁度二十代の、学問をはじめたばかりの時分のような気分になる。まあ、暮しの方は又飜訳の仕事でもやりながら――
三平 そりゃ……そりゃねえ、そんだけ兄さんが若返った気持になってるのは結構だけどですよ、なんだ、気だけ立てて見ても、身体がそんなに弱っていちゃ、どうにもなるまいと思うんだが――それが大事な点だと私は思いますがねえ。第一、兄さんは、これからは今迄と違って、学問の研究を、外部からの力がひん曲げたりする事がなくなったと言うが、私はそんな事はないと思うね。
柴田 そりゃ、細かい事を言えば、そうかも知れんがねえ、しかしいずれにしろ、外部からの力に依ってひん曲げられる事に対して抵抗してだな、ホントの物の真実を守って行くのが、先ず学究の任務じゃから、少しでもその種の外力が減ったと言うのはよろこばしい事で――
三平 違うなあ、私らの考えは。学問などと言うものは、いつまでもその時その時の力に依って動かされて行くもんで、学者と言うものは、その時々の権力でどうにでもなるもの――つまり、学者は一人残らず曲学阿世の徒でさあ。おっと、これは学者の悪口を言っているんじゃありませんよ。悪口でもなけりゃ、褒めているんでもない。学者にしたって此の世に生きている人間ですからな、此の世を支配している力に動かされるのは当然だし、それがあたり前だって言っているんです。
柴田 (苦笑する。しかしすぐまじめになって)……いや、そんな事はないよ。なるほど学問には、その時々の外力で動かされる部分も有るには有る。しかし動かない部分も有る。実は、その動かない部分こそ、学問の本質だ。つまり、勝者からも敗者からも同時に認め得る道理――公平冷静な、むつかしく言えば普遍妥当な、つまり、第三の価値。それが学問の中心だ。そりゃ自然科学だけであって、人文科学にはそんなものはないと言う者も世間には有るが、そんな事はない。現に――
誠 ふ、ふ、ふ……(黙々として聞いていたのが、その時、鉛筆をカラリと置いて低く笑う。柴田、言葉を切ってその方を見る)
三平 そりゃそうかも知れんけど、私ぁそんな事よりもだな、兄さんはもっと何とかして、食う物でも、もう少し食べる算段をしてからだな、そいから学問でもなんでもすると、ねえ誠君――
誠 まあ、いいですよ。ふふ、お父さんは、さっきから僕に言ってるんだ。
三平 なに? なにを?
誠 こないだの議論の続きを、お父さんは僕にふっかけているんだ。
三平 しかし、君……(柴田の方を見る)
柴田 なんだ?……(誠を見ている)
誠 ……(チョットだまっていてから)直ぐにお父さんは、普遍妥当の、第三の価値のと言いますけど……そんな物を持って来て、どんな事を立証しようと言うんです? 大和民族と言うのは、本質的に、そして根本的に、この島に
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