様に執拗に君を打ち叩き、苦楽座をやるならば全力をあげてこそやれと苦言を呈するのも、全く、俳優として現代日本の第一流者の一人であり、そしてわが深く愛する友である君に、日本新劇の正統の受継者たれと心から僕が願うからである。
8
君は
「教えてくれ三好君」と言う。
さあ教えた。もし此の様な蕪雑な言葉が教えると言うことに当るならば。そして、君に僕が何事かを教えることが出来るならば、僕と言う人間が未だ他に学ばなければならぬ事が多いためである。と言うよりも、僕が僕自身に教えなければならぬ事が多過ぎるためであると言うのが、より適切であろう。と言うよりも、君は僕の兄弟であり、君は既に僕の内に住んで居り、君は僕であり僕の一部である。その君に向って僕が「それは間違っているぞ、本当のことは、こうだ」と言っただけだ、と言うのが更に適切であろう。それが「教える」と言う事になるのであったら、僕は教えた。君は学ぶがよい。
君は又「存分に誤りを指摘し鞭打ってほしい」と言う。
さあ、誤りを指摘し鞭打った。
君の誤りは、結局に於て僕の誤りだ。君の怯懦も、結局に於て僕の怯懦である。大所高所から見れば君と僕とは共犯者である。君を鞭打つのは、僕が僕を鞭打つのだ。鞭の痛さに君が音をあげるよりもズット前に、同じ鞭の痛さに僕は泣いている。比喩では無く、文字通りに泣いている。これが「鞭打つ」と言う事になるのであったら、僕は鞭打つ。君は、立ち上って、歯向って来るか、鞭の方向に向って歩み出すかのいずれかをせよ。
更に又、君は「君(三好)が自分の一本槍な誠実さから、そう感じ、そう批判してくれるのは……」と言う。まるで「あなたは神様であるから、そんな風にお考えになれるし、そんな風におやれになるでしょうが、私共は平凡な人間ですからこの様に思い、この様にしか出来ないのです」とでも言うように。
違う! 第一に、それは事実で無い。次に、それは卑劣きわまる逃げ口上なのである。
なにが僕が一本槍なものか。なにが僕が誠実なものか。もし僕が誠実だとするならば、君と同じ位に誠実であるに過ぎない。
見ろ、僕はこれまで思想に於ても生活に於ても仕事に於ても、あれやこれやと、これ程に血迷い歩き恥をさらし、人を傷けると同時に自身をも傷け、昨日の事を今日裏切り、少しばかりの苦しみや悲しみにも忽ち自れを失い、未練と執着の泥で我れと我が心と顔をよごして来た。今後とても、いずれは、それの連続であろう。その一つ一つを具体的に言えとあらば言ってもよいが、殆んど僕はそれに堪え得ぬ。又、今更それを言う必要も無いであろう。ただ僅かに、その様な自分を少しずつでも[#「少しずつでも」は底本では「少しづつでも 」]マシな方へ持ち運んでくれる「行」としての――つまり、その様な自身を少しずつでも真に救ってくれる告白の場としての、従って又、もしかすると自分というものが、他の人々のためにも幾分かは役立ち得るようになるかも知れないところの鍛錬の道場としての芸術――劇作の仕事が僕の前に在る。丁度君の前にも芸術=演劇の仕事が在るように。
しかし、此処でも尚僕は迷った。恥を語らねば話が通じぬ。その様なものとして劇作の仕事を考えながらも、やっぱり金が欲しい。ひどい貧乏は、やっぱり怖かった。それで時々は「金のために」仕事をした。そして、その金が細々ながら続く間だけ、つまり食って居れる間だけ、本来的に自分のしたいと思う「ホント」の仕事をした。そして恐ろしいのは、前の場合にも、その仕事は他ならぬやっぱり自分がするのであるから、良かれ悪しかれ自身のホントの姿が出るし、後の場合にも、その仕事はやっぱり自分がするのであるから、「金のために動いた」時の自分の姿が現われて来る。そして、この二つは殆んど両頭の蛇の様に互いに互いを喰い合いもつれ合い、互いが互いを堕落させ合って、殆んど収拾のつかぬようなメチャクチャな状態に自分を陥れた。それに僕は気が附いた。何とかしなければ堪え切れぬようになった。そして思ったことには、これは自分が「食う必要」と「芸術家としての本心」とを二つの物として別々に扱っているからだ。この二つを完全に一つのものに統一する以外に逃れる途はない。即ち「食う必要」がソックリそのまま「芸術家としての本心」であるようにしなければならぬ。別の言い方をすれば「食う必要」が命ずる事に堪え切れない程にひ弱わな部分が「芸術家としての本心」の中に有るならば、それは切り捨てなければならぬし、「芸術家としての本心」が命ずる事に堪え切れぬような部分が「食う必要」の中に在るならば、それを切り捨てて、その残りだけが生きるか、又は死ぬかしなければならぬ。そして、それは果して出来る事なのか? 出来る! 出来るばかりでなく、そうであってこそ「食う事」と「本心」とは助け合って、より高いより堅固なものを生む事が出来る。そして気が附いて見たら、これが僕の「本職の道」であったのだ。
出来ると僕に言えるのは、それを現に僕が実行出来ているからだ。勿論、未だあまり完全な形で実行出来ているとは言いがたい。現にこの三四年位は、そのために、黒字としての収入は一銭も無くなって前借々々で辛うじて食っている。しかしとにかく食っている。だから、もう僕は、うろたえない。又、だから、現にこの三四年は、その昔僕が芸術至上主義的であった頃の様に「純粋」な仕事はしないし、出来ない。しかし辛うじて、とにかく自分の芸術家としての本心に背くような仕事はしないで済んでいる。だから、僕はもう、うろたえない。
勿論、生活の方も劇作の仕事も、スラスラと運んでいるとは言えない。窮迫と不如意と、非才と鈍根に、独り泣くこと、しばしばだ。特に近年、生活と仕事の無理がたたって来て、数日ないしは十数日を病床に徒費しないで過す月は殆んど一ヶ月もなく、人中に出て活動することに全く耐え得ない程に衰えている健康状態なので、「つらいなあ」と思う事が無いと言い切れば嘘になる。しかし、それだけに以前に較べると確に、少しばかりは腹が据った。そして、「おれと言う男は、銃を持たされても鍬を持たされても槌を持たされても、その他どんな仕事を当てがわれても、その事に就てなんにも知らず、その力を持たず、物の役には立ちそうも無い。ただ僅かに文学芸術の中の演劇と戯曲に就てならば、ホンの少しだが知っているし、ホンの少しばかりなら役に立つようになれるかも知れぬ。だから、それをやる。それをやって行く事が許される時まで、それをやる」と考えるようになって来ている。
その事に関連して、国家や社会のことを言うことは敢えてしまい。それは第一に自分の任で無い。第二に、国士的発言者の論と説は今天下に充満していて、自分などの蛇足を必要としないからである。ただ、自分のみでひそかに信ずる所ならば、僅かながら持っているし、しかも、こうして自分の状態は未だ「飢ゆる」と言うことからは遠い。これを思えば「つらい」などと言う感想は、どこかへ吹き飛んで行き、楽しくなる。誇張では無い。僕はボロをさげ少し食い、片隅で、自分の好む仕事をやらせて貰い、うまく行けばその仕事で以て少しばかりお役に立つことが出来るかも知れない自分の運命に満足し、よろこびを感ずる。このままの此の運命にである。
従って又同時に、ズット昔、僕が始終こぼしていた様な愚痴――「食えさえすれば、良い仕事が出来るがなあ」を言わなくなり、言う必要がなくなり、言うまいと思っている。そんな事を言うのは、自分一人を清しとして世間を汚れたりとし、その自分がその世間をうらむ言葉だ。ところが、実は問題は世間ではなくて自分だ。自分が只今から決心して「本職」になればよいのだ。各自が一人々々そうすればその内には全体が「本職」の世界になる。「世間が世間が」と言っていて、自分からはじめる事を怠っていれば、いつまで経っても、どうにもならぬ。それに気附いた。だからヤットの事で僕は、そうした。今後もこれでやって行く気である。
つまり、僕は以前の様に「純粋」でもなくなったし、以前の様に「醜悪」でもなくなってしまった。乞われれば、どこへでも、どんな劇団へでも戯曲を提出しようと思う。応分の金さえ呉れれば。ただ「醜悪」な金儲け主義の劇団では僕のもののような戯曲は商売にならぬから上演出来ないまでであろうし(そんな事は僕は知らん!)また、「純粋」な芸術的劇団に於ては、僕が要求するような金は呉れないであろうと思う。(金を呉れなければ、僕は書かないまでだ)。いずれにしろ、僕が劇作生活をやって行くに足るだけの金さえ呉れる劇団ならば、上はどの様に芸術的な劇団のためにも、下はどの様に低級な猿芝居のためにも、僕は嬉々として戯曲を執筆しようと思う。現に君達の苦楽座にも、金さえ呉れれば書く。但し、僕はいつでも書きたい物を書くだけだ。
そんなわけで、此の三四年、滑稽なことは、そして当然なことには、僕は「恐ろしく金の事にかけては、きたない劇作家」になった。大概の演劇人が、そう言っているよ。そして、それでよいのだ。事実そうなのだから。
僕の眼から見れば「人生、意気に感じて」上演料無しで自作を上演させたりする劇作家は、それ自体として醜悪にして怯懦なる存在であると共に、わが国の劇作家の道を毒する毒虫として映る。なぜならば、彼が或る一つの劇団に無料で自作を上演させるためには、他方に於て、金の取れる場合と金の取れる相手からは、どの様に不正当な手段ででも、どの様な不正当な額でも金を取ることを不可欠とする。ならびに彼が或る劇団にたまたま無料で自作を上演させたと言う事は一つの前例となり、その座の前例はその種の前例だけが寄り集って、劇作家全体の生活をおびやかし、引いては、これから劇作を以て身を立てようと志す者達の路を実際的にふさいでしまう事になるからである。そして、そのためにこそ僕は、その様な劇作家の「人生意気に感ず」式の、吹けば飛ぶような軽薄な感傷(それ自体としては概して善意に基くものである事を僕が知っていても)を心から憎む。この点に関しては笑わば笑え、罵らば罵れ、僕は今後いよいよ益々「金にきたなく」なろうと決心している者だ。それは僕の「本職の道」が自然に僕に命じることだからだ。
君達俳優が「良心的な仕事なら、無料でも持ち出しでもやろう」とする態度を僕が、この様に執拗に憎むのも、同じ理由からである。
9
もう、わかったか? まだ、わからぬか? 丸山定夫よ。
悪い事は言わぬ。一日も早く苦楽座をよしてしまいたまえ。なぜならば、苦楽座はその出発点に於て既に根本的に誤っているのだから、将来健全な姿で永続して行くことは決して出来ないからだ。しかし、せっかく始めたものだから、なんとかして続けてやって行きたいとならば、それはそれでよいから、苦楽座の今後のやり方の根本を改造したまえ。つまり苦楽座の性格を作り変えたまえ。
どんな風に変えればよいのか? 僕も批難のしっぱなしで悪いと思うから、それを次に簡単に言う。
一言に言うならば、僕が劇作家としているのと同じ事を君は俳優としてやりたまえ。これを今少し詳しく言えば、先ず第一に、君は「国家が心要としている高い演劇」などと言う言葉の上だけでの大言壮語を一切やめたまえ。次に君は一ヶ月百円で暮せるように君の生活を整理したまえ。一時にそれが出来ないならば、なるべく早くそれに近い生活を採りたまえ。次に君は、映画会社との契約を即刻打ち切りたまえ。それが不可能ならば、なるべく早く打ち切るようにしたまえ。次に君は、専ら「金を目あて」の芝居をやりたまえ。金にならぬ芝居は一切よしたまえ。但し、その「金を目あて」の芝居は、君の国家に対する誠実や芸術に対する良心などと別々なもので無いようにしたまえ。従って、これを別の言い方をすれば、君は専ら国家に対する誠実と芸術に対する良心に基いた芝居をやりたまえ。それ以外の芝居は一切よしたまえ。但し、それが君に普通の生活をするに足る程の金を与える場合にのみやりたまえ。
次に、苦楽座の他の座員達にもそれを実行
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