。つまり君達を立ちあがらせたものは、演劇文化の「兵士」としての意識だと僕は思ったのだ。
 ところが、この「兵士」達は立ちあがるや、いきなり、各自が幾分ずつ[#「幾分ずつ」は底本では「幾分づつ」]大将になろうとしはじめた。つまり、スタア意識で動きはじめた。また、この「兵士」達は、立ちあがるや、いきなり、いくらかずつ[#「いくらかずつ」は底本では「いくらかづつ」]各自の「稼業」の暇々に、そして大多数の稼業の暇々が好運にも一致した時だけ「戦さ」をしはじめた。つまり、各人が映画その他で稼ぐ暇々に芝居をすると言う事をはじめた。また、この「兵士」達は立ちあがる時に「戦死」の覚悟の代りに、どう転んでも、絶対に戦死の心配はないと言う「安心」をいくらかずつ[#「いくらかずつ」は底本では「いくらかづつ」]抱いた。つまり、苦楽座がもし失敗すれば、いつなんどきでも稼業の映画その他に舞い戻ればよいのである。
 それを見ていて、僕の心には、次第に疑問が生れ出した。この様な兵士達にホントの戦さが出来るであろうか? つまり、今日本が必要としている高い演劇を末永くやって行けるだろうか? この様な「兵士」達は、あまり立派
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