を感ずる。このままの此の運命にである。
 従って又同時に、ズット昔、僕が始終こぼしていた様な愚痴――「食えさえすれば、良い仕事が出来るがなあ」を言わなくなり、言う必要がなくなり、言うまいと思っている。そんな事を言うのは、自分一人を清しとして世間を汚れたりとし、その自分がその世間をうらむ言葉だ。ところが、実は問題は世間ではなくて自分だ。自分が只今から決心して「本職」になればよいのだ。各自が一人々々そうすればその内には全体が「本職」の世界になる。「世間が世間が」と言っていて、自分からはじめる事を怠っていれば、いつまで経っても、どうにもならぬ。それに気附いた。だからヤットの事で僕は、そうした。今後もこれでやって行く気である。
 つまり、僕は以前の様に「純粋」でもなくなったし、以前の様に「醜悪」でもなくなってしまった。乞われれば、どこへでも、どんな劇団へでも戯曲を提出しようと思う。応分の金さえ呉れれば。ただ「醜悪」な金儲け主義の劇団では僕のもののような戯曲は商売にならぬから上演出来ないまでであろうし(そんな事は僕は知らん!)また、「純粋」な芸術的劇団に於ては、僕が要求するような金は呉れないであろうと思う。(金を呉れなければ、僕は書かないまでだ)。いずれにしろ、僕が劇作生活をやって行くに足るだけの金さえ呉れる劇団ならば、上はどの様に芸術的な劇団のためにも、下はどの様に低級な猿芝居のためにも、僕は嬉々として戯曲を執筆しようと思う。現に君達の苦楽座にも、金さえ呉れれば書く。但し、僕はいつでも書きたい物を書くだけだ。
 そんなわけで、此の三四年、滑稽なことは、そして当然なことには、僕は「恐ろしく金の事にかけては、きたない劇作家」になった。大概の演劇人が、そう言っているよ。そして、それでよいのだ。事実そうなのだから。
 僕の眼から見れば「人生、意気に感じて」上演料無しで自作を上演させたりする劇作家は、それ自体として醜悪にして怯懦なる存在であると共に、わが国の劇作家の道を毒する毒虫として映る。なぜならば、彼が或る一つの劇団に無料で自作を上演させるためには、他方に於て、金の取れる場合と金の取れる相手からは、どの様に不正当な手段ででも、どの様な不正当な額でも金を取ることを不可欠とする。ならびに彼が或る劇団にたまたま無料で自作を上演させたと言う事は一つの前例となり、その座の前例はその種の前例
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