泥で我れと我が心と顔をよごして来た。今後とても、いずれは、それの連続であろう。その一つ一つを具体的に言えとあらば言ってもよいが、殆んど僕はそれに堪え得ぬ。又、今更それを言う必要も無いであろう。ただ僅かに、その様な自分を少しずつでも[#「少しずつでも」は底本では「少しづつでも 」]マシな方へ持ち運んでくれる「行」としての――つまり、その様な自身を少しずつでも真に救ってくれる告白の場としての、従って又、もしかすると自分というものが、他の人々のためにも幾分かは役立ち得るようになるかも知れないところの鍛錬の道場としての芸術――劇作の仕事が僕の前に在る。丁度君の前にも芸術=演劇の仕事が在るように。
 しかし、此処でも尚僕は迷った。恥を語らねば話が通じぬ。その様なものとして劇作の仕事を考えながらも、やっぱり金が欲しい。ひどい貧乏は、やっぱり怖かった。それで時々は「金のために」仕事をした。そして、その金が細々ながら続く間だけ、つまり食って居れる間だけ、本来的に自分のしたいと思う「ホント」の仕事をした。そして恐ろしいのは、前の場合にも、その仕事は他ならぬやっぱり自分がするのであるから、良かれ悪しかれ自身のホントの姿が出るし、後の場合にも、その仕事はやっぱり自分がするのであるから、「金のために動いた」時の自分の姿が現われて来る。そして、この二つは殆んど両頭の蛇の様に互いに互いを喰い合いもつれ合い、互いが互いを堕落させ合って、殆んど収拾のつかぬようなメチャクチャな状態に自分を陥れた。それに僕は気が附いた。何とかしなければ堪え切れぬようになった。そして思ったことには、これは自分が「食う必要」と「芸術家としての本心」とを二つの物として別々に扱っているからだ。この二つを完全に一つのものに統一する以外に逃れる途はない。即ち「食う必要」がソックリそのまま「芸術家としての本心」であるようにしなければならぬ。別の言い方をすれば「食う必要」が命ずる事に堪え切れない程にひ弱わな部分が「芸術家としての本心」の中に有るならば、それは切り捨てなければならぬし、「芸術家としての本心」が命ずる事に堪え切れぬような部分が「食う必要」の中に在るならば、それを切り捨てて、その残りだけが生きるか、又は死ぬかしなければならぬ。そして、それは果して出来る事なのか? 出来る! 出来るばかりでなく、そうであってこそ「食う事」と「
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