放蕩心を蔽うためにミソもクソも一緒にした「永続性」の必要と言う言葉を使っている。僕は君のために惜しまざるを得ないのだ。
 なるほど君達苦楽座の座員諸君は生活の道(しかも、かなり裕福な生活の道)を映画その他に持っていて、その余力で苦楽座をやって行くのだから、その生活の道が断たれない限り、苦楽座は「永続」するであろう。丁度、女買いが自分の生活費から女買いの費用を楽に捻出し得る限り、女買いを「永続」して行けるのと同じように。
 しかし、僕は言う、すべて本質を伴わざる「永続」は、あらゆる物事に於て、悪しき「永続」である。有害である。それは一刻も早く、それが本質を失い本質を歪めている事が明瞭に徹底的に判然とした瞬間に、打ち切られなければならぬものだ。
 君の言う「永続性」という事の正しき意味は「伝統」のことである。そして、われわれの伝統は、ただ単に形の上で一つの事が永続することであってはならぬ。要はその本質だ。その精神だ。先人の本質と精神を受けつぎ生かすものが、伝統の正統の受継者である。たとえば、万葉の正統の受継者は、訓古と模倣と形式だけを事とした中世の歌読みでは無くして、却ってたとえば源実朝であり、たとえば橘|曙覧《あけみ》であり、たとえば平賀元義であった如く。たとえば蕉風の俳諧の正統の受継者が、芭蕉の直弟子達や孫弟子達では無くして、却って、たとえば正岡子規であり、たとえば大東鬼城であった如く。
 そして、新劇に於て(更にさかのぼって言えば、その新劇こそ実は、歌舞伎を中心にして発達生成し来った日本演劇の正統の受継者であり、なければならぬのであるが、今はこれに触れず)、明治以来の諸先人達の作り上げた伝統の、今後に於ける正統の受継者は誰であろうか? 僕には未だハッキリとは言えない。しかし少くともそれは、苦楽座又はそれに類する本質や精神のものでは無いことは、言える。なぜかと言えば、それら先人達の本質と精神は、演劇を道楽として扱い、余力を以てやろうと云うのでは無かったから。彼等は彼等の全部をそれに賭けた。そして、彼等は彼等の仕事に賭けただけの、すぐれたる伝統を生み出し得た。そして、彼等の伝統を正しく受けつぎ生かすのも、われわれの中で自己の全部又は最良のものを賭けて演劇を担おうとする者である。又われわれは、われわれがそれに賭けただけの伝統を生み出し得るに過ぎないのである。
 僕がこの
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