。整理は、とにかく済んだ。一家は離散させられた。しかしそのために子供達の一人一人は、とにかく存立して行けるようになったのである。……それを聞いてそのズット以前に此の一家から勘当されて出奔していた息子の一人(即ち僕)は、よろこんで、ヤレヤレと思った。
そこまでは、よかったのである。そこから先きがいけない。と言うのは、その伯父さんは一家を離散する際に子供達の一人々々に、今後まじめにさえやって行けば、それぞれに身を立てて行くに足るだけの資本は添えてくれた(それは何かと言えば、芸術家としての良心と技術である)。ところが、離散して一人々々になった子供達の中で、その資本を妙なところに使いはじめた者が出て来た。その或る者達はバクチや投機にこれを使い出した。(即ち曽ての新劇人達の中で、あれ以来、映画でござれ芝居でござれ、金にさえなれば、そして少しでも多い金にさえなれば、その余の事はどうでもよいと言う「お役者根性」になった者達がいる。そして運良く、思いがけない金=月給にあり附いたもので、トタンにのぼせあがってしまって、小成金になった気の者が相当居ることは、誰もが知っている)。或る者は、せっかくの資本で、女買いをはじめた(即ち、演劇(=女)に惚れた惚れたと言いながら、実はホンの時たまのインギンを通じたいだけの気持で、自身の身体にも自身の財布にも決定的な危険を及ぼさぬ範囲内で芝居をしようと言う者達――即ち君もその一人だ――が現われて来た)。等々々。
曽ての勘当息子が、これらを見聞きしていれば、心外に思うのは当然であろう。第一、せっかく、チャンとして今後やって行くように取計らってくれた伯父さんに対して済まないのではないかと思うのだ。
即ち僕は、それらを心外に思う。当局(引いては国家社会)に対しても、それでは済まないのではないかと考える。此の際こそわれわれは、腹のドン底から自戒し自粛して、国家と自己の関係、文化芸術と自己の関係を洗い突きつめ、鍛えて浄めて、国家の子としての誠実と、文化芸術の僕としての良心に徹することに努めた上、文化芸術の事を為すには全身全心の誠を以てこれに当るに非ずんば、過去における過誤を償い得ないばかりでなく、われわれ自身をも遂に真に救い得ないではないかと僕は思うのだ。
しかも、演劇に対して女買いが女にするのと同じような事をしているその君が、自身のその様な中途半端な
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