又、偉大なる先人や将兵諸氏の事を言う事が懼れ多いとならば、言わずともよろしい。現在の国民大衆がそれぞれの業務にセッセとたずさわりながら、どれ程の労苦をしのいでいるか、そして、どの程度の生活をしているかを見てみるがよい。
 そして、演劇人と雖も国民大衆の一人々々である。一般の国民大衆の平均生活以上の生活をしてもよい資格は無いのだ。同時に、一般の国民大衆と同程度の生活(大体六十円から百円迄位の生活)をしようとさえ思えば、どの様な演劇人でも、コツコツと演劇の仕事にはげんでさえ居れば、それがどの様に「高い」演劇であろうと、どの様に「低い」演劇であろうと、チャンと暮して行けるのだ。現に暮して行けているのだ。
 三百円も千円もの収入を得て贅沢に馴れスタア意識に毒されてしまった阿呆共が、自分で自分の「伝説」に縛られてしまい、「良い仕事のためにならば千円の月収が百円になってもよい」とは思わないで口先きだけは「良い仕事」をやると称しながら、千円の月収にかじり附いている――これを、これこそ怯懦と言う。千円の月収のある者が百円の月収のある者を見て「とてもそれでは食えない」とデマる――これを、こそこそインチキと言う。
 君は、その様な意味で怯懦であり、その様な意味でインチキであるのだ。そして君以外の苦楽座同人諸氏、それから新劇くずれ俳優の中の或る者達、それから今の世に時めいているスタア格の俳優達の殆んどすべてが、そうである。今、われわれが一丸となって戦い抜かなければならぬ未曾有の国運の中にあって、自分の坐り込んでしまった「特等席」を離れることは「良心」の名でも「高いものの」名でも「国」の名でも、いやでござると言い放っている事を意味している。殆んどそれは獅子身中の毒虫の行為だ。
 なるほど、新劇――芸術的に良心的な、その手段に於て高い演劇――の観客は、現在のところ、他の演劇の観客に較べて、非常にすくない事を僕も認める。しかし、その劇団の経営・製作・持続などがよろしきを得るならば、――と言う意味は、理想的にうまく行けばと言うのでは無くて――専門劇団として普通の平均水準まで行けばである――今わが国に専門的新劇団の三つや四つを常置存続させて行くに足る程の数の観客は存在していることを、僕は断言する。せよとあらば、その計数の概略をも示すことが出来る。
 勿論、その様な劇団には、現在映画会社その他が
前へ 次へ
全33ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
三好 十郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング