ら」と放言しているのである。
君達をその様にさせている不安や恐怖や危懼の心理は、僕にもわからぬことはない。
しかし君達のその様な態度は、丁度ヌクヌクと安楽椅子にふんぞり返って居られる金持が、道楽に魚釣りに出かけて、「魚が一匹も釣れないでは、俺は食えなくなる」と心配しているようなものだ。また、ダンケルクから敗退したイギリス軍が、英本土まで逃げればよいものを、恐怖のあまりカナダの方まで逃げ去ってしまったあげく、カナダの安全さに馴れてしまって、「英本土に戻りたいが、戻るとドイツ軍に殺される」と心配するのに似ている。しかし、まだそれだけならよい。許すべからざるは、その様な心配を言葉に出して呼号する事に依って、現に魚を釣って生計を立てている本職の漁夫、又はこれから本職になろうとしている漁夫の子達を全く有害な不安に陥れたり、全軍の将兵に全くいわれの無い恐怖を与えて戦意を失わせてやろうとしている点だ。つまり、真剣に「高き」演劇に挺身し、又挺身しようとしている良き演劇人達を嘘偽の――少くとも真偽不明の言説を以て萎縮させようとしている事だ。しかも、それを「良心」や「純粋」や「国」の名に於てしている事だ。
君達、虚妄にとりつかれた「新劇くずれ[#「くずれ」は底本では「くづれ」]」どもは、何かと言えば過去を振返って「生活の苦難」を言う。苦難?
どこに、苦難と言うに値いするものが有った? 酒が飲めない、御馳走が食えない、一ヶ月三十円しか収入がない、三日食えなかったことがある……等々々。それが苦難か? 苦難と言う言葉が泣くであろう。われわれの志は、たかがそれ程の事を「苦難」と称して自ら誇り、しかもその事から尻込みし、今後とも尻込みする程に浅薄なものであるのか?
「芸」のため「道」のために、文字通り一生を粉骨し砕身して尚足らずとした先人達に、われわれは恥ずべきである。先人の事を言わずとも、現に、われらの目前に於てわれらの兄弟達である将兵諸氏が、どの様な状態の中で戦ってくれているかを想い見ればよい。食も無く水も無く、炎熱又は酷寒の道を一日に十里十五里と歩み行き、しかもその末に敵の十字砲火の中に身をさらす。苦難とはその事だ。それが苦難と言うに値いする事である。われわれ芸術にたずさわる者達が、芸術の事に専念するために味わなければならぬ少しばかりの不自由を苦難などと言うのは僣越の限りであろう。
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