て、君が君の新劇余力論の殆んど唯一の拠り所としている理由も、これである。これまで、君の言う「善意」に出発して演劇の世界に入り、努力しても、経済的な窮乏のためにそれが続けられなくなって演劇を捨てざるを得なくなって行った人達が随分ある。その事実を僕は認める。
「だから、自分達は生活の道を他で立て……云々」と君は言う。「だから」以後を僕は認めない。ばかりでなく、その様な話の運び方は、サギを烏と言いくるめて、自分自身の虫の良い量見を弁護しようとする態度だと思う。なぜか?
この場合も、事実がこれを証拠立てる。君が挙げている、これまでの新劇団なり新劇人達が「自分達を守るためにはこれで以て食って行かなくてはならぬ」と思い、腹をきめ、真剣に挺身したことがあるか? 僕は無いと思う。いや、思うでなしに、事実無かった。
たとえば、君が実例としてあげている曾ての築地小劇場にしろ、それから新築地劇団にしろ、新協劇団にしろ、その最盛期に於てさえ、劇団全体としても成員の個々人にしても、たとえば歌舞伎の人達や新派の人達や前進座の人達や新国劇の人達、更にムーランルージュ一座やエノケンやロッパに較べてさえも、挺身の度合いは低くかった。その事実を細かに具体的に述べよとあらば述べるだけの資料に僕は事欠かぬ。一言に言って、僕をも含めて、これらの新劇団の成員は殆んど全部、金持の与太息子でなければ芸術的ルンペンであった。その観念に於ても行動に於ても、そうであった。演劇のために「真剣に」そして「持続的に」努力しているとは、どうしても言えない者達が大部分であった。口に「芸術」や「美」や「良心」や「階級」や「正義」をとなえても、それに依って自己の全生活を統一することも出来ぬはおろか、たとえば、そのためにたった一日の飯が食えなくなっても忽ち悲鳴をあげてうろたえ廻るような弱虫であり、また、たとえば、そのために守らなければならぬ稽古の時間一つ守れない者達であった。なるほど一回々々の公演の演目や稽古の点では歌舞伎や新派その他よりも「良心的」らしく見えた時もあった。しかし、その良心を持ち続けて永続して生かすことにかけては殆んど無力で怠慢であった。その他、等々、挙げれば限りが無い。しかも、この者達の挙げる「口舌」の壮大さはどうであったろう。口先きだけでは殆んど宇宙大の目的を云々しながら、実際に於ては、エノケン一座やインチキレ
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